(1994年11月発行「風雲去来人馬」より)


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第2章 政策課題と産別闘争の歩み


第5節 生コン近代化計画推進と工組との雇用保障協定 1977年~1979年
生コン近代化委員会の発足/76年9月

「生コン近代化六項目」(通産省、76年2月)発表をうけて、同年9月、生コン近代化委員会が発足した。構成は全生工組連が主体となってセメント協会、全生協連が協力し、通産省がオブザーバーとして関与するというものである。
設立主旨では先ず背景として生コン業界が構造不況に陥っており、経営危機が生まれ、他方で品質等の社会問題も生じていると指摘する。関係業界が一体となって危機を打開する事が必要であり、行政の主導で近代化委員会を発足させ構造改善事業に乗り出す事を謳っている。
構改事業の内容は基本的に二つ。(一)生コン適正価格の実現、(二)過剰設備の適正配置である。具体的には協組・工組を積極的に組織化し、その下で共注・共販・シェア出荷体制をとるというものである。
この構改事業はその謳い文句とは別にセメント資本本位の危機打開策でしかない。先に公正取引委員会から「セメントの協組支配・価格操作」を理由に「協組脱退勧告」(74年12月)をうけたセメント直系生コン会社を、今度は協組加入的確規模に改組し(資本分割)、それを協組へ加入促進することで全面的に協力体制をとるというものだ。形を変えたセメントの協組支配である。また「過剰設備の適正配置」という事も、セメントによるスクラップアンドビルド策だ。(老朽化し効率の悪くなった設備の廃棄=スクラップと他方で新鋭設備の導入=ビルドという資本の利潤追求のためにとる手段)。
この近代化委員会の発足をうけ、各工組で検討が始まり、77年中に山口県をはじめ4工組が「計画」を申請・発表し、残り大半の工組が申請を決議した。大阪兵庫工組も懇談会の席上で組合の問に対し「翌年1月いっぱいで申請可能な段取りをつけたい」旨を回答している(77年12月22日)。
こうした全国をあげての構改事業着手に火を付けた処方箋ともいうべき生コン近代化委員会の中間報告が77年3月に発表され、次いで同報告にもとづき三大都市圏での生コン共販が開始された。大阪地区生コン協組では3月17日に開始し、年末には全国184協組の内65協組で実施された。

金と人によるセメントの生コン業界支配

77年の年頭挨拶で大槻セメント協会会長は次のように発言した。第一に前年暮れに発足した福田政権の「公共製作第一主義で臨む」という方針を大歓迎し、セメント業界の見通しも明るくなるだろうという展望である。第二に業界立て直しの為には、「各社の生コン会社再建が大事である。この面で各社連携して生コン再建に十分つくして頂きたい」(セメント新聞、77年1月7日)というものである。
セメントは既に徹底した合理化で不況を乗り切っていた。75年から76年にかけての2年間で、3373人をセメント工場から削減し、実に従業員の21%もの人減らしを行った。労働省の76年度「労働生産性調査」によるとセメントは20.7%も生産性を上昇させた。「生産量が増加したのに対し、労働投入数が減少した事が労働生産性向上の原因」なのである。首切り・配転による人減らしと一人当たりの労働強化によって、業績を上げるという典型的な減量経営である。最終的にセメント産業は第一次石油ショック(73~78年)を通じて全国56工場の内7工場を廃止し、全体の三分の一に及ぶ5000人を整理した。その結果、一人当たり生産性は60%もはね上がったのである。
徹底した合理化の遂行、それに加えて77年秋からの円高であり、エネルギー資源としての重油価格の引き下げである。石油多消費型産業であるセメントにとって、巨額の円高差益を生みだした。
こうして他産業に先がけてセメントはいち早く「不況脱出」を宣言した。残る懸案は生コン市況の安定であり、安売り乱売競争の防止である。メーカーは生コン近代化委員会の実体であり、ゆえに執行者がメーカーであると公言し、セメント直系の主導で転廃業促進を推し進め始めた。そして工組や各協組への人的派遣、金融的便宜を通じて協組支配を強めた。さらに77年9月にはセメント協会オーナー会で直系生コン企業での自主的な10%削減を決議し、構改事業の促進に拍車をかけた。
セメントの生コン支配について、セメント自ら次のように豪語した。「セメントと生コンは一枚岩になった。セメントは近代化委を全面的にバックアップし、金も人も出して協力している」(セメント協会生コン専門委員会委員長築山哲雄、77年12月8~9日生コン近代化合同研修会)。
生コン製造業もまたこうしたセメントの業界支配を容認し、追随してきた。77春闘で生コン支部との間で、「セメント価格の一方的値上げは容認しない」旨の確認をとったにもかかわらず、当の生コン業の側がセメント値上げの先兵としてふるまった。この時の支部からの追及に対して生コン製造業の側は「セメントと生コンは深い関係にあり、これまでやってこれたのはセメントのおかげ。セメント値上げは生コン近代化の条件となる」と発言してセメントの下への系列化を自ら容認するに至った。

政策パンフ第二号の発表/78年4月
生コンの構造改善事業はその鳴り物入りの「近代化」のかけ声にもかかわらず、この事業は一口でいって、セメントメーカーの主導による過剰設備の共同廃棄・合理化を推進するものであった。またそれは、労働者の側からいえば雇用保障問題は緊急の課題であった。
生コン支部にとっても、これまでにも集交参加企業との間で締結された雇用保障協定や政策10項目要求の推進(本章第4節、製作パンフ一号)や組織拡大、共闘の前進などを基礎としてより一層の雇用保障、労働条件の発展は急務であった。78年4月にはこうした政策課題のとりくみの総括、到達点の確認をふまえて「新たな前進めざして」と題する政策パンフ第二号が発表された。
同パンフでは生コンを「セメントをより積極化した商品」であると定義して、4点にわたって分析した。(一)有効販売手段して、(二)流通合理化の手段として、(三)拡販手段(販売シェアー拡大の草刈場)として、(四)価格形成手段としての4点から分析し、セメントによって生コン業が系列化され、従属させられている点を明らかにした。そして大阪兵庫工組が進めようとしている構造改善事業が基準においている数値(出荷高、生産性等)なるものが、実は低賃金長時間労働そのものであった1973年度のものである事を暴いている。要するに構改の行きつく先は、あの劣悪な労働条件の下へ労働者を投げ込もうというものだと指摘している。
このような構改=近代化の問題点を指摘した上で、「雇用拡大を実現する為の数量的接近の試み」を行って、セメント値上げが生コン経営へもたらす致命的な打撃、また過積の規制・労働条件の統一による雇用機会の拡大、安定を明らかにしている。「政策とは要求の積極化であり、要求実現の為の道筋と段取を明らかにしたものである」というのが生コン支部の政策についての定義である。先の分析が結論づけるように、雇用機会の拡大・安定は実現可能である。実現に至道筋は何よりも、(一)企業間競争の廃止と協組機能充実による業界の自立と安定、(二)労使懇談の組織化による要求の正当性・重要性の確信と共闘条件づくり等である。
また同パンフ第二号の広汎には当時のダンプ労働者への組織化の進展(次項参照)を反映して「ダンプ業者・労働者の社会的地位の向上をめざして」という一項が加わり、支部の政策活動が広く他業種にも波及していることを示している。
組合推薦のダンプ出入り保障協定の締結/78春闘

78春闘では、第一に賃上げで実質アップが製造17,735円(11.2%)、輸送14,545円(7.81%)となり、共に消費者物価上昇率6%を上まわる賃上げを実現した。特に前年にひきつづいての製造部門での大幅アップは、これまで製造と輸送のと間で格差があり、その事が生コン労働者全体の賃金抑制の重しとなっていた事を打ち破るものだった。第二に雇用確保と保障に関する事前協議3項目の確認、時間外賃金の3割アップ、ダンプ協定、生活最低保障45時間協定の延長等、資本の合理化に歯ドメをかけ、従来の労働条件の確保・向上を勝ちとった。
第三に今春闘から従来の集交に加えて、企業規模や業種に応じて、新たに3つの交渉方式がもたれるようになった。ミニ集交(河内、望月、淀川、土梅)、バラ集交(浅井、三黄、福本)、ミニミニ集交(土藤、三信)である。これらの集交に参加する企業は規模とか営業実績からみて統一労働条件の確立が困難な所ばかりであるが、こうした形で集交に参加する事で、従来からの33社集交に接近させていく事を追及するものである。
この78春闘での新たな成果の一つは、政策パンフ第二号でも特に指摘されたようにダンプ協定である。ダンプ労働者はその登録の85%が「一人一車制」であり、建設独占資本の下での重層的下請制度の底辺におかれ、一回でも多く1トンでも多く過積みをしなくては生活できぬ状態におかれていた。一匹狼的な正確も強く組合もなく、逆に運輸業界・建設業界によって組合対策として、スト破りとして利用される事が多かった。
今春闘では生コン支部は組合の推薦するダンプ業者・労働者のみを工場構内に出入りさせる事、過積と酷使の適正化等を要求し、実現した。このダンプ協定の締結(78年4月26日)によって、ダンプ労働者が続々と生コン支部に結集してくるようになり、最盛期には500台をこえるダンプが参加し、独自の事務所体制を確立するまでになった。
また78年夏の退職金改定闘争では、支給率については勤続年数15年までは運輸一般統一要求を上まわる協定を勝ちとった。退職金制度のあり方、全体の仕組みについては、2年間改善交渉を凍結する事を確認した。

政策闘争の3つの成果

77年から79年にかけての生コン支部の政策要求の推進は大きな成果をあげた。
第一は賃金・労働条件の統一(77年末闘争)である。
第二は上部団体も異なり、方針・路線も違う労働組合同士の共闘の条件が大きく成熟し、生コン労協(生コン関係労働組合協議会、1979年11月1日)の結成にまで至った。
第三は生コン労組の共闘の前進を背景に、大阪兵庫工業組合との集団的労使関係を樹立した事である。
これら3つの成果が互いにからみあって生コン業界の安定化と賃金・労働条件の向上が実現された。

産別統一賃金・労働条件の確立/78~79年

77年秋の賃金・労働条件の統一は産別統一賃金の形成という質的転換をもたらした。所属する組合の相違を反映しての賃金格差を是正し、資本の側からの各個撃破による差別分断支配を打ち破り、組合への信頼と結集度を飛躍的に高めた。
関西の生コン労働者の賃金は、これ以降所属組合の違い、未組織にかかわらず、この統一賃金を社会基準として形成されようになった。輸送部門と格差のあった製造部門の「あるべき賃金」水準の確定や、80春闘での専業者の賃金の統一等々の成果となって実現した。
この賃金・労働条件の産別統一というのは、別の面で支部内に新たな問題を生み、かなり高度の水準の議論を呼ぶ事となった。以前の大型最低保障制度確立の時と同様だが、支部内では分会によっては過去の職場での闘いによって勝ちとった成果があり、単純に産別統一するという事になれば、それを上まわる成果をなくしてしまうという反発があった。この点をめぐって徹底した議論が深められた。
この点を配慮して結局、一人の労働者が10歩すすむよりも、100名の労働者が1歩すすんだ方が将来的に大変成果が勝ちとれるだろうという視点から議論が進められていき、団結がより強化されていった。
また賃金労働条件の産別統一は中小企業間の協同化の前進を促した。休日や休憩もない長時間労働や過積載などをくり返し企業間の過当競争が推進される。それを賃金体系はじめ、休日や労働時間の統一等を通して労働コストを平準化する事で、企業間の競争条件の一つがなくなっていく。各企業が教区見合いの下に団結していくことができるような下地が作られていった。同時に労使それぞれの団結の強化を通して、中小企業と労働者の共同行動、団結が形づくられ、大企業の横暴を規制していく事につながっていった。こういう3つの柱で賃金・労働条件が統一されたのである。
これが今日に至るまでの関西の生コン産業での賃金・労働条件を形成する基盤になっている。

政策課題での労組間共闘の発展/78~79年

賃金の統一ばかりでなく、労働条件の統一についても、他労組との共同行動を推進した。この時期から上部団体も異なり、理念も路線も違う田労組との共闘が進み、生コン支部と同盟との間での政策課題での共同の取り組みも徐々に実現し拡大していった。輸送協議会(経営者団体)と、同盟交通労連生コン部会との三者構成で、過積追放推進委員会が設立された(77年11月19日)。
また日々雇用労組三団体(新運転・自運労・阪神労)と生コン支部朝日分会との共闘も前進し、77年秋からは統一要求にもとづく合同交渉・共同行動を取り組んだ。
同盟との政策的共闘も78年夏には一層前進し、事務局レベルでの要求の統一、さらに妥結時点での最終合同交渉(出口一本化)をもつまでに発展していった。
こうして関西生コン輸送協議会との間で、生コン支部・同盟が共済制度を発足させるに至った(78年9月)。10月には輸送協に加えて、セメント資本直営工場で組織される製造部門の阪生会も交えて「合同セミナー」が開催された(78年10月17日)。セミナーでは生コン支部と交通労連生コン部会とがそれぞれ政策闘争の方針について説明し、生コン産業の近代化と雇用労働条件について労使共通の課題の検討が進められた。
共闘の場の拡大につれて全港湾労組も78年10月から生コン支部・同盟と共に政策推進会議結成の準備活動に加わるようになった。生コン産業の行方について認識一致をはかり、業種別統一対応のための検討を持続しようとするものである。11月には一時金についても相互交流・調整が行われた。
よく79年2月には「政策推進会議」が常設機関として正式に発足した。この三労組の共闘は79春闘で協力協議を重ね、ついに夏季一時金闘争では要求も交渉も統一し、工組に対し統一対応するに至り実質的共闘が始まった。79夏季伊知地金は輸送31社、製造5社との間で集交がつづけられたが、6月28日の第3回交渉から前期3労組が共同テーブルについて行われる事になった。
また政策課題をめぐる大阪兵庫工業組合との交渉においても、これまで労組と工組・輸送協・阪生会との間の確認事項についての履行責任を工組がとる事が再確認され(79年4月)、以降労組(生コン支部、同盟)と工組との間での具体的交渉が月1回のペースで始まった。夏季一時金闘争の期間での確認は次のようなものである。(一)79年4月からの積立金(m3あたり100円)は雇用福祉基金的性格をもつ、(二)文化・スポーツ共同施設は合意あれば建設、(二)完全週休二日制については環境づくりに努力するというものである。
3労組の統一行動は9月14日には「生コン産業近代化を進める会」として、通産省や公正取引委員会への要請行動を実現した。対行政交渉や工組交渉を通じた協力共同関係のつみ重ねは、その後日々雇用共闘会議の参加も得て、11月1日に「生コン関係労働組合協議会」(生コン労協)を発足させた。

工組が交渉当事者として「雇用第一義」を確認
労働組合の側における要求・交渉・共同行動が統一されて行く推移に対し、経営側はどのように統一されていったであろうか。
既に77年から生コン支部と同盟との間での意見交換が始まり、製造の業者団体である阪生会との懇談も開始していた。78年3月には、阪生会から構改事業に伴う雇用協定について、工組も話し合いの意志があるという提案がなされた。こうして78年7月14日、工組と生コン支部との間で第1回の交渉が実現した。
当時、大阪兵庫工組は構造不況業種の適用をうけて近代化促進法の指定による構造改善事業を実施(80年開始、84年終了)に移そうとしていた。その内容は、(一)新増設抑制と共同廃棄、(二)117工場中13工場廃棄等である。
13工場の廃棄が中心である以上、工業組合としても雇用保障を求める生コン支部との交渉をもたざるを得ない。こういう工組の側の事情から労組と工組の交渉が始まった。
数度の交渉の末、78年9月11日にはついに工組との間で、画期的な雇用保障協定が締結された。(一)構改事業の申請にあたり、工組は「労働者の雇用不安を払拭するため、雇用確保を第一義とし、万全の措置を講ずる」事を確認した。(二)「その履行に当たっては、全面的に責任を負うものとする」として工組の責任も明確化した。
この協定の意義は画期的なものである。ただやみくもに「廃棄反対」を叫ぶのではない。近促法の計画内容の第3点「従業員の福祉向上、消費者の利益増進、環境保全、その他」という項目を捉えて、その履行を工組に約束させた事が第一点である。「雇用確保第一義」を確認する事で、中小企業の業界秩序を混乱させ経営不安定に導く「新増設抑制」を労使共通の要求として実現できるのだ。これが第二点である。
第三に工組が雇用保障の責任を負うという事の中身である。大阪兵庫工組はその参加に12分会、127社、156工場を組織している。ところでこの12分会というのは各地区の協同組合であり、工組と協組とは法人格上では独立していても、実質上「工組の分会としての協組」という一体的な組織である。その工組が「全面的に協力する」というのだから、当然その協定の効力は業界全体へ及び組合が存在しない企業をも拘束する従来の集交参加企業数と比べて、その規模ははるかに大きい。
何よりも大阪兵庫工組は、このすぐ後に中小企業近代化等助成法(略・助成法)による事業計画の申請を控えていた。それに先だって工組としては「雇用不安を払拭する」必要があったし、労働組合としては工組として連帯雇用保障の明確化がない限り、構改計画に対するどのような協力もできない。工組が「雇用確保に・・・・万全の措置」を約束したのが、この協定化を待って、10月に通産大臣宛に事業計画が申請された。
工組との間で構改事業に伴う「従業員の福祉向上」に関しての協議が進む中で、だんだんと広く労働条件、福祉要求全般について議題が広がり、工組の側も業界全体を代表した交渉当事者としての役割を果たすようになってきた。
労働組合の側でも、生コン関係労組間の共同歩調が、定着しつつあった。
79年4月からの生コン支部・同盟との間の懇談の定例化、次いで6月のの全港湾も加えた3労組との間の協定等が重ねられていった(前項参照)。
7月には3労組と業者団体(工組、輸送協、阪生会)とで「生コン産業の近代化を進める会」が結成された。同会は発足後、主な活動として排ガス公害、交通事故の原因の一つたる過積載の追放運動を継続した。そして79年から80年にかけて、神戸苅藻島工場新増設抑制の運動を実現した(第6節参照)。
 
第6節 集団的労使関係の確立と32項目協定の確認 1970年~1982年夏
80専業集交に工組も参加
79年12月10日、「生コン産業の近代化を進める会」の主催で業者団体、生コン労協の労使2,500名が中央公会堂に集まった。集会は「構改実施にあたり雇用の安定を第一義とする」事を共通したスローガンに掲げ、生コン労協傘下3労組はもとより行政からは大阪通産局が、そして業界よりは大阪兵庫生コン工組、阪生会、輸送協、大阪地区協組の代表が一堂に会した。
同集会は生コン産業近代化のための労使共同の活動について次のように決議した。(一)苅藻島での生コン工場新設、近畿地方での生コン新設に反対する。(二)ゼネコン、セメントメーカーとの対等取引関係の確立。(三)工組と協組の責任で共同施設の建設。(四)中小企業の権益を守り、労働者の雇用確保と労働条件の地位向上、等である。
集会の成功をふまえて生コン労協と大阪兵庫工組との間でより緊密な協議が進んだ。80年2月には両者の話し合いの席上で「今後の労務問題に関して交渉権をもつ」と確約がなされ、この時点より実質上、団体交渉としての性格が強まってくる。
この80春闘は集交参加企業の広がりにおいてもひとつの画期となった。この年生コン専業社15社の参加による専業集交が実現したからである。専業社というのは生コン製造部門の内で、オーナーが自社株を50%以上取得している企業であり、直系とは異なりセメント支配から相対的に独立している。その意味では組合との間で共通の要求が成立しうる位置にある。
そして画期的であるというのは、この専業集交に工組代表がオブザーバーとして参加した事である。席上、業者代表はこの専業集交が工組労務部会としての必要性にもとづいて開催された事を表明した。
この春闘では日経連大槻会長の影響の強いセメントの親会社が11,200円というガイドラインを打ちだしている中で、集交で18,000円の賃上げを獲得した。また生コン企業の経営を危うくするセメント価格の値上げを労使一致して阻止し、生コン価格、輸送価格について社会的に認知させる為のいくつかの要求も出された。中小企業の経営状態を安定させる事が、そこで働く人の労働条件の向上につながるのであり、制度要求と賃金を結合させて闘った事が回答を引き出した要因となった。
工組が年間休日の統一協定を締結
80年6月の夏季闘争では、大阪兵庫工組は単なる交渉参加から一歩進んで、夏季休暇を統一する協定を労組との間で締結した。年間休日を104日間とし、盆休日を8月14日から20日までとするという確認である。生コン業者にとって休日の統一は切実であった。背景にセメント系列毎の拡販競争があり、生コン業もまた売らんが為の競争に駆り立てられており、他社の休んでいる間に販路を拡張せんと必死である。それがまた生コン労働者の労働条件を低下させる。
年間休日、盆休日の統一協定の締結は、この蟻地獄のような拡販戦を防止する切り札である。工組が協定締結の当事者になるという事は、その効力が16協組、263社・291工場、約7000名の労働者に適用されるという事である。もちろん、組合の存在しない未組織の企業に対しても効力が及ぶ。
この協定に対し9社が、盆休み中に抜けがけ的に営業し、市場を混乱させたが、各地区協組は業界秩序を混乱させた違反企業への処分(一定期間操業停止、ペナルティー)を行って、協定の遵守と履行の責任を果たした。だが阪南協加盟6社の違反に対する協組の対応が弱く、支部を中心に他労組も参加する「近代化を進める会」の抗議行動が展開され9月に解決した。その直後、大阪府警による捜査・逮捕攻撃をうけ、後の一連の権力弾圧の前触れとなった。これがいわゆる「阪南協事件」である(第3章第9節参照)。
独占の投資計画を規制=神戸・苅藻島工場
全国各地で近代化計画にもとづく構改事業が実施に移されようとした1979年、全生工組連地区本部会議で全くウラハラな報告がなされた。全国での生コン工場の新増設が120工場に達しており、構改計画が目標としている廃棄工場171工場に匹敵するという。体のいいスクラップアンドビルドだ。老朽化し不要となった設備の廃棄(スクラップ)にあたっては、低金利の政府系資金の利用等大幅な優遇措置をうけながら、その蔭で新鋭設備の導入(ビルド)によって自社系列のセメントを売りまくる。構改をかくれ蓑にしたセメントの旺盛な商魂だ。
さすがに通産省も放ってはおけず、翌80年6月「生コン工場の新増設の抑制」を核通産局を通して各都道府県に要請した。
過剰設備で生コン工場の操業率は30%にまで落ち込み、需要バランスが崩壊し、ひいては中小企業の経営を圧迫する。その事が労働条件を押さえ込んでいく。そのような時にセメントメーカーが無計画な投資計画を組んで更に混乱に拍車をかける。
労働組合としてはこの工場の無計画な投資計画を規制する必要に迫られてくる。新増設の場合は、事前に業者及び労組の同意がなければ一切行ってはならないという事を全面に押しだしていくようになる。
これに対しセメントメーカーは、「投資計画の規制というのは、資本主義の経済法則そのものを規制するものである。到底同意できない」という態度をとりつづけた。生コン支部はもとより、全港湾や同盟・交通労連、そしてこの頃には全化同盟も加わっていたが、一緒になってそのような投資計画を規制する運動を展開した。
そのような状況の中で、代表的な闘争としては79年から80年にかけて行われた神戸の苅藻島工場の闘争がある。それは、住友セメントが10億円もの巨額を投資して完成したプラントを完全に閉鎖に追いこんでいったものであった。
製品コストへの関与権確立-神戸地区労組

この時期に労組(生コン労協)と業界(工組他)との間重要な共通課題のひとつにセメント価格の問題があった。
セメント資本は前の年79年9月に、トン当り1800円の値上げを強行し、80年中に2万円台の大台に乗せようとしていた。しかも3月期決算では依然として高収益を上げており、この「値上げは石油危機を口実した大規模な設備投資、資本蓄積のためのものでしかない。
だがセメント価格の値上げは、直接生コンの経営状態に影響してくる。特に個々の生コン企業とセメント企業とが個別に取引をしていた頃には、相手の言いなりになって、一方的にセメント価格が決まっていた。それについて生コン業界の側が、協組として結束する事で、対等取引できる条件づくりをする事を、労組として求めていった。それと並行して、労組から積極的にセメント会社へ交渉申し入れをして、セメント価格切り下げを求めていった。その要求に応えない企業に対しては、必要に応じてストライキをはじめ抗議行動も展開した。
80年暮には、神戸協組がm3あたり2000円もの大幅値上げをしようとした。表面的には生コン業界からの要望のように見えるけれども、実はその後ろにはセメントメーカーの影がチラついていた。セメントと生コンは表裏一体だから、生コン値上げを表向きに、その値上げ分を全てセメントが吸い上げるという交渉が進んでいた。
そこで組合の側は、セメント値上げに連動する生コン値上げに反対するということで、ストライキをもって阻止した。
80年12月4日、神戸協組(溝尾理事長/立会人朝永兵庫輸送協会長)との間で協定が締結された。第一に、生コン販売契約の中の不合理条項の改善である。契約は通常物件が建設状態にない時、つまり生コン納入段階ではない時点、その8ヶ月位前の時点の価格で決められてしまう。経済変動の激しい、物価高騰の状況下では生コン業者に一方的に不利な契約なので、それを納入時の実情に応じた出荷ベースの価格決定にすべきという合意である。
第二に、セメント値上げに連動する生コン価格決定をしない事である。特に神戸協組の場合半数以上が直系工場であり、生コンの社長はセメントからの覇権したサラリーマンであるという事からも、メーカーの言いなりであった。この点について生コン業者としての自立を確認した。
第三点は、陥没価格の是正である。セメント価格は生コン市況が不安定で混乱し、低価格の地域では同様に安くなる。運賃と手間をかけて運ぶ京都や奈良のセメントの値段が、大阪、兵庫より安いというのが陥没価格である。この場合、むしろ大阪、兵庫でのセメント価格こそ値下げすべきであるという事である。
こういう価格決定における不合理を正すために、生コン業界として、協組としてセメントに要求すべきであるという確認である。「セメント価格を決定するにあたっては、中小企業の経営の破綻につながるような決定の仕方はしない」(神戸地区協)という協定の実現である。つまり価格決定にあたって事前に労組と協議して、その同意を得てから決めるという主旨である。労組の製品コストへの関与の確立である。
労働運動史上、労組が独占価格を規制した前例は、未だかってない。中小零細業者からも大きく支持・共鳴が高まった闘いであった。

工組が「労組法場の交渉当事者」に/81年
81闘争の大きな特徴、画期的な成果は、生コン業界を網羅する大阪兵庫生コン工組が、経営者側を代表する交渉主体になったことである。
それは関西生コン産業経営者連盟(従来の39社集交を指導してきた機関)が、3月3日に臨時総会を開催して決定した。決議の内容は「従来の労働協約の継続審議事項や81春闘要求等の交渉権を全て大阪兵庫生コン工業組合に委任する」というものである。
この経営側の決定をうけて、生コン支部は全港湾、同盟交通労連、そして全化同盟(監視亜の生コン関係では約300人)との間で調整に入った。支部の方針は、(一)交渉権が労使法にもとづくところの労使関係である事を明確にする事、(二)協定締結能力をもち、合意事項については未組織企業をも拘束する事、(三)民主的ルールの確立の3点である。
関西生コン産業政策委員会を設立
経営側の一本化に対応して、労働側の一本化が急がれた。全化同盟だけは「事が急すぎる」「内容的に若干の問題がある」と理由を作り、調整作業からおりてしまった。本音は組合運動の理念・路線の異なる組合との共闘を拒否したいという考えである。
他の2労組との共闘は、従来から共に生コン労協で実績を積み重ねており、80春闘評価での未調整や全港湾との組織問題等で、労協自体が凍結状態となっていた為、その共闘関係の修復は急務であった。
結局3労組の間で統一対応をとる事になり、3月15日間sだい生コン産業政策委員会が結成され、事実上の交渉・行政機能を持つようになった。共同交渉団の構成は団長が同盟、副団長が全港湾、事務局長が運輸一般(生コン支部)であり、81春闘交渉に臨む事になった。交渉人員は生コン支部35人、同盟35人、全港湾17人である。3月末以降の第2回交渉から共同のテーブルにつく事を確認した。
全企業が操業停止、ゼネスト実現
共同交渉の開始にあたり、3月12日工組との間で協定が交わされた。(一)工組との団交は労組法に基づく交渉権の行使である。(二)合意事項は労働協約としての効力を持ち、工組加入企業、生コン輸送業、関係労働者に適用される。(三)交渉事項は雇用・労働諸条件・福祉・合理化など工組及び労組より申入れた全ての議題とする。(四)労組の共通課題は共同交渉が原則であり個別交渉はしない。(五)従来関係使用者との間で確認されてきた事項の履行確保についても、工組が責任を負うことになった。
更に産業政策委員会から外れて個別交渉をすることになった全化同盟についても、工組は他の組と統一対応をする事も確認された。
3月27日初の共同交渉は、工組百数十社、政策委(労組)70数名参加で開かれた。4月6日に残業拒否・合同決起集会に2200名が参加した。3労組の一元的指導による大衆行動が発展し、大阪兵庫の生コン産業の始まって以来のゼネストが4月8日、13日と成功した。両日は未組織企業もストに連動して一斉に操業がストップした。13日以降は無期限スト態勢に入り、14日には支部独自で滋賀県交通支援集会を開き1500名が参加した。
4月15日の共同交渉で最終的に解決したが、賃上げは手当込みで18,700円、8%を突破する。第二に工組による連帯雇用保障、雇用福祉基金の確立、定年延長、退職金制度確立、産別最賃10万円の確立等、政策制度要求が大きく前進した。
集団的労使関係の形成/81年夏
この81春闘の諸成果の中でもとりわけ大きな点は、工組が連帯して雇用責任を負う事を確認した事である。また雇用安定、福祉増進をはかるために工組加盟企業で100億円の基金を確立する事が合意された。この基金は失職者の一定期間の生活保障、高齢者の雇用創出のための諸施設の建設、産業年金制度、厚生福祉設備等の諸事業を行うためのものである。
そしてこの100億円基金をどう運営し、今後の雇用福祉についてどのように具体化していくのか等について、労使同数の各種委員会が設置された。6月には5つの専門委員会が機能し始めた。 ①雇用対策委員会、②雇用福祉委員会、③賃金労働条件委員会、④安全衛生委員会、⑤紛争処理委員会の5つである。
また工業組合の中に労使双方からなる事務局をおき、3労組の代表を専従者として置き、その費用は工組が負担する。そこで今後の政策課題について労使共同で検討・協議していく。
3労組の共闘の前進による多大な成果の獲得は、多労組へも影響を及ぼし、全化同盟の加盟(7月24日)、さらに企業内組合(タイコー千里)の参加も実現した。
他方、工業組合も法律等の制約を除去し、そして工組加入資格をもたない輸送専業企業をも加えるという2つの目的から、新組織を発足させた。8月1日から事業を開始した、大阪兵庫生コン関連事業者団体連合会である。同連合会は産業、企業の発展工場と、近代的労使関係の推進をうたい、労働組合との団体交渉・労働協約締結をその事業に掲げた。
こうして大阪、兵庫の生コン製造および輸送企業全体を包含した集団的労使関係が名実共に形成された。労働組合が企業枠を越えて、業種別のみならず広く産業全体を視野に入れて活動するようになった。
集団交渉の広がりと「32項目」の確認/82年夏

大阪兵庫工組は、前年9月に構改計画にもとづく初の事業として組合会館を完成させ、活発に動いていたが、81年には兵庫県竹野町に保養所(6月/3億5000万円)、六甲山に技研センター(10月/10億円)を相次いで完成させた。また9月には京都生コン工業組合と政策委員会の間で、7項目の協定が締結された。11月には生コン団体連合会、工組、政策委員会の3団体の共催で「労使共同セミナー」が開かれた。セミナーには大阪通産局岡本生活物資課課長も参加し、「生コン産業の現状と構造改善事業について」と題して講演を行った(11月19~20日)。
翌82年になると労組と業者団体との間での集団交渉も大きく前進した。82春闘では、①大阪兵庫工組と政策委員会、②強と工組と政策委員会、③奈良での運輸一般と同盟産労の共同集交、④バラ・SSでの運輸一般、同盟産労の共同集交、⑤採石・ダンプ業者集交と多様に集交がもたれた。
骨材・ダンプ業種やポンプでも政策闘争が前進した。骨材・ダンプは81年12月に政策を発表した(『ダンプの仲間』参照)。ダンプ運転手は形式上は「ひとり持ちの事業者」であるが、実体は政府答弁ですら「車持ち労働者」と認めざるを得ない不安定な状態に置かれていた。生コン支部の78年末の活動で結集していたダンプの仲間を中心に、ダンプの共済事業部を作り、ダンプカーの共同購入、専属スタンド建設などの事業を行い、運賃交渉についても業界と対等の立場で交渉する事が可能となった。また生コン現場のポンプ、つまり圧送業者が組合を作り適正価格をつくりあげる。こういう形の中小企業家とそこに働く労働者が一帯となった反独占の運動が、生コン業以外にも広がっていった。
この大阪生コン圧送協同組合(4月設立)は5月から共販を開始したが、その後ゼネコン・セメントから「労使共同体制」であるとして圧力をうけ、解散させられてしまった。このように、81年から82年にかけての政策闘争は大きく前進した。
1982年8月3日、生コン団体連合会と政策委員会加盟の各労働組合との間で、それまでの労働協約事項や合意事項、あわせて32項目について確認しあった。現在(94年11月)に至るまで工組との間で懸案となっている、いわゆる「32項目」の確認である。

支部組織拡大・主体的力量の強化
81年から82年にかけての数々の成果は共通の政策要求にもとづく集団的労使関係づくりによってもたらされた。交渉主体が大阪兵庫生コン工業組合(業者団体)を一方に、他方に生コン産業の主要な4つの労働組合の共闘組織という形になったからである。
特に労組の側は大兵工組加入195工場の内、労組の組織率は関生支部が99工場50.8%、同盟交通労連51工場26.2%、全化同盟27工場13.8%、全港湾12工場6.2%に達している(82年末)。
生コン産業に従事する全構成員を代表する労使ともに産業別交渉機能を確立した集団的労使関係を形づくったのである。
その原動力は何といっても関生支部の組織拡大・主体的力量の強化に支えられている。大兵工組全体の半数に支部組織を確立し、各地区協組別にみると北大阪で82%、大阪、神戸、北神でも50%を越し、工組・協組の業界動向を左右する要因になっている事がわかる。なお従業員数との比率でみると北神(147名中82名)55.8%、神戸(584命中244名)45%、北大阪(1230命中480名)39%と、この地区の比率が高い。
大阪兵庫工組傘下の主要な工組に占める関生支部の組織率の高さ、それを牽引力とした各労組間の共闘の成立(政策委員会)が工組や協組の業界動向を左右する程の力をもった事が政策闘争を前進させたといえる。
51社との間でユニオンショップ協定
集団的労使関係の構築にあたり労働者の側の条件整備を可能にしたのが4労組間の共闘である。それぞれの労組は理念も路線も異なれば上部団体(ナショナルセンター、産別労組)の所属も違っていたが、様々な困難を乗り越えて共通する要求の一致にもとづいて共闘をつくりあげてきた。関西生コン産業政策委員会の結成(1981年春闘)に至る経過の中でその一端をみてきた。
要求の一致を軸に労働者を統一しようとするならば、それは一企業一組合が相応しいに決まっているがその第一歩として実現されたのが一業種を対象としたクローズドショップ制(組合推薦労働者の完全雇用制)の追求である。
もっとも日本のような企業別組合が大半という現状の下では、それは労使癒着型の労働者への支配装置に点火する怖れが往々にしてみられる。関生支部のこれまでの数々の経験-優先雇用協定(76年)、工組の連帯雇用責任(78年)等の確認は、労働組合の統制の下に雇用確保を可能にしてきた。
その試みを一歩前進させたのがユニオンショップ協定の締結である。1979年11月生コン労協と51社の間に協定されたものである。その内容は、企業内に一労組しか存在しない場合にはその労組とユ・シ協定を締結し、すでに複数組合が存在する場合にはそれ以上新しい組織をつくらせないようにするというものである。
この協定は将来的に未組織労働者をなくす事を展望して、現状では労組間、労使間に無用の混乱を生じさせず、むしろ労組間の統一対応を質的に向上させようとするものである。そして問題が生じた場合は、生コン労協内での組織問題調整によって解決をはかるとされている。
トレードによる組合一本化へ

このユニオンショップ制を一歩進めて一企業あるいは一工場に一つの労働組合という在り方が要求統一にとって望ましいという立場から、トレード制度が考案された。丁度プロ野球での「トレード」を想定すればよいが、一つの企業内に複数の組合があって他の企業または工場にも同様に複数組合が存在するというケースの時、両企業・工場間で相互に組合員を交換し移動させるという制度である。
このケースの実現をみたのが82年11月である。三田藤原生コンの生コン支部6名が三共運輸(明神生コン)にトレードされ、その見返りに三共の生コン産労6名を藤原生コンにトレードした。こうして両社内の労組がそれぞれ一本化する事となった。
トレードによって企業内の組合併存状態をなくし、労組の一本化を達成し労使関係を安定させた。この事によって一企業内での労組による要求提案・獲得能力も大幅に高まり、かつ構造改善事業への労組の関与の余地も大きく強まった。
このトレードは当初関生支部組合員の企業間トレードとして構想されていたのだが、三共・藤原間の例は他労組組合員との交換トレードに発展している。その背景には81年春闘での大兵工組加入全企業の賃金・労働条件の統一が基盤となって可能となった。
ユニオンショップ協定とトレード制の定着によって組合が拘束力をもったクローズドショップ制へとより一歩近づいた。そして組合には加入しないが、工組との確認・成果を享受するという未組織労働者の大半の組合不要論(未組織安住論)を大きく揺さぶり、組合への結集を促進していく契機となった事も特筆に値するであろう。

 

第2章 第7節 セメント独占・国家権力・日本共産党による大弾圧と集団的労使関係の破壊  1982年夏~1984年 に続く

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