(1994年11月発行「風雲去来人馬」より)


 ←前のページ   次のページ→
HOME

第2章 政策課題と産別闘争の歩み


第1節 支部主導型春闘への転換と最低賃金の協定化 1973年~1975年
集団交渉方式の開始/73春闘
73春闘では14社を相手にした初の集団交渉が実現した。それまでにも生コン共闘時代の集交の経験はあるものの、生コン支部結成以来の支部の統一闘争の推進の中で、実現し、その後の「集交方式」の発足である。既に71春闘では統一妥結を前提に未解決分会支援の統一ストを打ち抜き、三生では第二、第三組合との組織統一が拡大してきた。
それまで生コン経営者の側は何が何でも生コン支部の要求を認めようとはせず、同盟労組や企業内労組との間で格差回答をつづけてきた。73春闘で支部は産業別統一闘争を徹底的に追及した。統一要求、統一交渉、統一指導、統一行動を貫き、全自運中央と地本の統一行動と支部の独自行動、そして職場闘争を結合した。また闘いの相手を直接の雇用主へのみふり向けるのではなくて、セメントメーカーへの闘いを組織し、11波にわたって述べ1146名を動員した。
集交への参加をしぶり、態度を明確化しない悪質な企業へは集中行動を展開。戦術もステッカー貼りから早残拒否、そして指名スト、時限スト、波状スト、統一ストと序々に拡大していった。こうして資本を統一闘争によって追いつめ、職場ごとの独自闘争によって資本家間の矛盾を増大させていった。
同盟の妥結は要求100%の回答であったが、三生ではそれを上回る25,000円の回答を得て、同盟の要求額をも上回る妥結を得た。
神戸宇部での個人償却制の廃止。大型運転手最低補償10万円の確立。業務上特別保障(労災)一律400万円。週休2日制への見通しの明確化。洗車時間の自由時間化と、入浴時間の就労時間扱い。兼行保険掛率を労40%、使60%とする事。クーラー前車取り付け等々。制度的要求はことごとく実現するか、前進した。
支部の運動が前進している企業では統一回答を打ち破って獲得した分会もいくつかある。三生の20,300円、大阪宇部、近畿生コンでの19,500円である。こうして集交方式の採用によって生コン支部の賃金・労働条件は大幅に前進した。「生コン支部主導型春闘」の幕開けである。つづいて夏の一時金闘争では、同盟を5万円近く上回る成果をあげていった。
大型最低保障10万円の協定化
73春闘での労組側要求の目玉は大型運転手最低保障制度である。集交参加企業14社と協定化し、そして不参加企業とも個別協定を結び、18社におよぶ大型運転手最低保障10万円の協定化に成功した。
この大型最低保障はトラック運輸産業に働く100万労働者の低賃金を打破する為に、72春闘で全自運によって揚げられたのが始まりである。大阪ではトラック協会との間に9万円で協定化された。この協定に対して生コン輸送経営者達は当初頑強に抵抗してきた。いわく「これは賃金引き上げに相当する」とか「不就労部分に対する賃金保障は出来ない」「ノーワークノーペイ」というものである。大阪地本の行動とむすびついて、トラック協会との協定化をテコに、生コン輸送経営者の抵抗を押し切って9万円協定化を実現した。
それに、ひきつづいての73春闘の10万円保障の協定化である。支部の闘いの進んだ企業(分会)では既にこの協定水準を上回る所はかなりあったが、この協定は全般的に低賃金にすえおかれてきた大多数の生コンおよびトラック労働者にとって大きな朗報となった。
第一に10万円最低保障が協定化されたことにより以降、各企業経営者に対し「大型運転資格者の基準内賃金を10万円異常にせよ」という要求がどんどん出されるようになったこと。そして生コン輸送部門では大多数の企業で実現し、賃上げ闘争の大きな武器となった。第二に所定労働日の日数計算上において組合活動日を含むことを承認させたこと。第三に「賃金抑制の重し」となってきた「出来高払制」「個人償却制」など。労働者や未組織労働者の低賃金の歯止めとなり、支部の賃金闘争の障害のひとつをとりのぞいた。

ついに同盟回答を逆転/75春闘
73春闘での「生コン支部主導型春闘」への転換の開始、そして夏季一時金闘争での成果(同盟を5万円上回る回答)は、ひきつづき年末一時金闘争でも生コン支部の指導性の発揮という形となってあらわれた。
当時、一時金の決定方式は、同盟の「年間臨給」方式と呼ばれていた。それは同盟と企業の協調による「一発回答」で年末に一年間の臨給を大雑把に決定するというものであり、極めて低額で決定され、その金額に全自運ならびに他労組をそろえるものであった。これでは社会全体の経済情勢の変動によ賃金・労働条件の改善の余地はどこにもない。
特に73年年末の情勢は、ドルショックと石油ショックのダブルパンチの中での空前の生活機器であった。物不足と物価高騰の一方での大企業の大幅黒字。『73年度版経済白書』ですら「法人所得増益のうち・・・・・6割までが価格上昇によってもたらされた」と指摘するように独占資本が暴利を貪るための労働者・庶民への価格転嫁・物価高がのしかかっていた。
同盟の労使協調にもとづく年間臨給方式はあっけなく崩れた。既に年間臨給で36万円を協定済みであった同盟が、協定を破棄して45万円の要求を掲げる。そして腕章闘争から、36時間スト(11月30日~)に立ち上がった。
このことは「闘いなくして成果なし」とする生コン支部の闘いに影響されての、同盟の「変身」である。もっとも彼らはその後も「路線の違い」を理由に、支部との共闘を拒否しつづけた。いずれにしても生コン支部の動向が同盟等を問わず生コン労働者の要求に大きな影響を与えることとなった。
この73年末闘争の最終妥結は30万円である。親会社の全国セメント26万円と比較しても、生コン支部が全体のリード約を果たしたことになる。年間に直すと51万円になり、同盟の年間臨時36万円を大きく引き離した。
翌74春闘の賃上げでも同盟の33,500円、全国セメント28500円を打ち破り、高いところで38800円平均の基準内賃金のアップをかちとった。更に週休2日制についても月2回の実施、生活最低保障要求の実現、退職金規定の確立をかちとった。
そして75春闘ではついに同盟回答を逆転した。こうして73年集交方式の提起以来の3年、闘いによって、賃上げ・一時金・制度要求のいずれにおいても同盟を上回り、労使協調主義の破綻と、「闘いなくして成果なし」の支部の路線の正しさを名実ともに確立した。
残業50時間保障/74春闘
73年、10月のオイルショック以降、空前の物不足と物価高が国民生活を直撃した。独占資本のみが価格操作によって巨大利益をあげていた。セメントも例外ではない。セメントは生産-出荷をストップして価格つり上げを行い、生コン価格も連動して急騰した。後に公取委(公正取引委員会)から警告される程であった。
操業調整、出荷ストップは直ちに生コン運転手の収入にひびいてくる。なにしろ基本給が低賃金のままだから、総収入の40%以上を残業に依存している。時間外の削減は生活の見通しを立たなくしてしまう。
それに加えて73春闘での「大型最低保障10万円」は当時の支部の実情には必ずしも即してはいなかった。基準内賃金が10万円以上のところが多く、残業単価が時間700円を越しており、提示(16時)入庫者に1時間の残業時間保障がついていた。だから10万円の保障では「生活保障の友好措置」とは到底言えなかった。
そこで支部は「生活最低保障」をより実効あるものとする為に、先ず前提としてこれまでの闘いで得た総賃金を既得権として打ちだした。残業や歩合給も含んだ総賃金が月平均16万円であり、この「平均的賃金の確認」を要求して、1973年秋から交渉を進めた。
当時すでに経営側によって残業をなくし、仕事は昼間に集中するというやり方によって、労働者の収入は月に2~3万円もダウンしていた。石油危機を口実とした労働者の生活圏への圧迫と実損、その回復こそ求められていた。
支部の提出した要求は次のようなものである。(一)石油危機に関連した賃金減収分に対し基準外賃金で毎月6万円保障。(二)セメント・生コンメーカーが単価引き上げのために行った「納入拒否」期間に対する平均賃金支給。(三)石油問題等での労組による政府、自治体、行政官庁への要請等の行動への万全の保障。
経営者側は当初集交すら拒否していたが、5回にわたる集交で2月12日、解決に至った。最低保障の計算の基準を時間外手当で行うこととし、その保障基準時間を50時間とした。金額になおすと約4万円の保障である。
翌75春闘では45時間保障に開廷し、大型保障16万円を確認した。
石油危機の下での大幅賃金切り下げの中での最低保障賃金の協定化のもつ意味は非常に大きい。なお付言しておくが、この「残業50時間要求」は何も労働時間の延長を自ら求めるものではない。これまでに獲得してきた賃金収入の平均額の「最低保障」を企業の社会的責任として求めたということもあり、その計算基準を「残業時間数」においたのであり、実際の稼働時間を指すものではない。

 
第2節 政策課題の定式化/生コン専業8社協定  1974年~1975年
不況期において組織が前進・拡大
「集交方式」の定着によって長年の「全自運潰し」と同盟・企業内労組育成政策は水の泡と帰した。春闘や一時間闘争での同盟回答の逆転、賃金・労働条件の前進が生コン支部の主導の下で始まっていくのが、前節でふれた74年~75年のことである。
支部の前進が60年代の高度成長期には遅々として進まず、空前の経済危機と言われた第一次石油危機の進展の中で拡大していったというのも、生コン支部の特徴として興味深い。通常の労働組合の場合はおおむね景気上昇期に賃金面での改善をとり、組織も拡大していったものである。逆に不景気になると「会社あっての組合」「会社の業績の悪い時に賃上げ要求でもない」という姿勢にたやすくおちこんでしまう。折からのオイルショックである。大半の労働組合は結局、資本の側からの「雇用をとるか、賃上げをとるか」という攻撃の前に膝を折り、これ以降右翼的労戦統一流れに乗り込んでいった。
これに反して、生コン支部は74年10月の第10回大会では組織数を633名と発表し、組織拡大の成果を明らかにした。支部結成以来の10年間2~300名の水準で組織が行きつ戻りつしていたのに比べ、格段の前進である。
社会全体が聞きの情勢にある時、一つひとつの組織が本物であるか否かが問われてくる。不況下での組織拡大という事実こそ生コン支部の真価を示したものである。この組織的前進をもたらした主要因は産別統一闘争の追及であり、この時期から具体化しはじめた政策課題の闘争である。
セメント支配下の協同組合
セメント産業は戦後一貫して不況知らずの急成長をとげてきた。敗戦で皆無と化した日本経済は政府の援助のもと重化学工業中心に再建の道を歩み、〝投資は投資を呼ぶ〟という世界に例を見ない高度成長を遂げたが、セメント産業もこの過程で設備投資および産業基盤整備、社会資本拡充と大口セメント需要等によって急成長した。こうしてセメント資本は肥大化していったが、一方では巨大金融資本の系列下にくみこまれ、他方では市場競争激化の中で過剰生産に追い込まれて行った。
セメント転換率は、75年の時点でその60%が生コンという形をとっている。60年がわずか8.6%であった事とくらべると15年間に約7倍の伸びである。セメント販売イコール生コン販売であり、セメント独占にとっては生コン市場の支配こそ、その販売拡張の成否を左右してしまう。もともと日本の生コン業界は欧米とは事内、出発点からセメント主導で進んできたが、この時期セメント独占は生コン市場の安定的確保をねらって協同組合をメーカー主導で組織し運営してきた。
協組の設立は当初、関東東協組の68年が最初で、72年春には全国で100を越えるにいたった。協同組合が独禁法の対象外であるのをよいことに乱売防止価格体系の確立、輸送部門の合理化、労働組合対策の機関として協同組合を運営してきた。
また高成長の末期頃からセメントメーカーは、第一にセメントの高価格維持、第二に労働組合対策上、生コン製造・輸送の2部門のきりはなしという二つの理由から、生コン部門を形式的に「独立」させてきた。これについては拡販政策の面からは協組支配を通してその系列化を維持・強化するという側面もあった。

セメント独占とアウト(専業)との関係
オイルショックのさ中には、セメント価格は便乗値上げで74年6月には20%もの大幅値上げを行った。また「セメント系列大手生コンの協組支配・価格操作」(公明党峯山議員の国会質問、3月27日)(当時)が横行した。これには公取委から勧告が行われ(4月30日)、その結果いったん価格協定が破棄されるに至った。
そしてついに公取委は74年春の勧告につづいて、翌75年3月末に再び「直系生コン企業の協組からの脱退」を関西6社に勧告した。それ程セメント独占の生コン業界支配は目に余るものであった。
他方で生コン業もまたセメントの圧迫の下で操業率の急降下にみまわれていた。74年25.5%、75年は実に20.6%に低下。大阪・兵庫関係では、74年から75年にかけて13の生コン工場が閉鎖に追い込まれた。
特に協同組合未加盟のいわゆるアウトサイダーと呼ばれる専業社にとって自体は深刻であった。つまりそれは好況期において、アウトサイダーの存在はセメント独占にしてみれば、そこがいずれのセメントメーカーの直系ないしは系列下に入っていないという事で、その拡販政策の絶好の草刈場となっていた。だが不況期にあっては、セメント独占相互の協定によって乱売防止・高価格維持をつづけようとすれば、アウトの存在は自らのカルテルに対する挑戦以外の何ものでもない。和歌山方面でのセメントの資本力を背景にして行われた「乱売」はアウトをふみつけにして平然とするセメントの体質を物語る。
業界の大半が中小企業という生コン業界にとって、資本力によって物をいわせようとするセメントの整理・淘汰攻撃は死活の問題となってきた。
労働組合にとっても問題は同様である。生コン支部の闘いが切り開いた「使用者概念の拡大」と「背景資本への追及」は多くの成果をもたらしたが、今回のオイルショックの中で業界そのものを淘汰してでも生き延びようとするセメントの攻撃に対抗するには、新たな打開方法が必要となってくる。
そして、中小企業と労働者の共同行動によって、共通の敵である独占資本と対決して業界の自立を確立することが、企業の安定と労働者の生活向上につながるという路線-政策課題の提起が生コン支部から発せられることになる。
中小専業8社協定の締結/74年
セメントメーカーと中小生コン専業社との矛盾の拡大が73年オイルショック以降、進行していった。確かにこの側面をとりあげれば「中小企業の二面性」である。一方では労働者を無権利状態において搾取する面と、他方で独占資本から収奪されている面とである。とはいっても一人ひとりの労働者が目のあたりにする個々の中小専業の経営者というのは、とても「一面共闘」の相手とは思えない社長ばかりである。生コン支部の政策課題の要求も順調に進みだすまでには、内外にわたっていろいろと紆余曲折があった。
最初の成果は74年6月のいわゆる「中小専業8社協定」である。協定を締結した8社とは次の各社である。灰久建材、大阪ライオン、北大阪菱光、サヤマ、新大阪生コン、大昭和運輸、和歌山生コン、大阪運送である。
協定内容は次の通り。
(一)会社は組合活動に対する支配介入は一切行わず、労働基本権に対する侵害行為に対しては協力共同してその排除に努める。
(二)組合は週休二日制による工場休職については昭和49年(74年)12月迄代休制を認める。
(三)8社は祝祭日については、昭和49年12月迄代休制を認める。
(ユン)8社は週休二日制の休日と祝祭日については一切買上げをせず、労働者の希望を基本に週休二日制は連続休日を与え、祝祭日については賃金月度中に代休を与えるものとする。
(後)8社は第二項、第三項実施にあたって組合員に対する就労権の侵害等一切の不利益行為は行わず、協定に対する違反行為については組合の必要な処置に異論をとなえない。
というものである。
この中小専業8社協定によって、職場での不当労働行為の根絶と協力共同、さらに週休二日制について確認した点は、生コン支部の「一面闘争・一面共闘」方針の前進である。
74年の闘いでもう一つ見逃せないのは、退職金制度の確立である。春闘でいったん継続審議となったのをうけて、7月末から8回の交渉を経て、9月3日妥結した。内容は5年で35万円(運輸関係平均20万前後)、10年で100万円(同50万円前後)という比較的高水準であり、かつ23社統一協定ということから、未組織・同盟を問わずセメント・生コン・運輸産業全般に与える影響は大きいものである。
初の政策課題定式化から政策懇談会(75年8月)へ
中小専業8社協定は当初、半年間の時限協定であったが、生コン支部の中小企業政策への企業側の理解も高まり、協力共同の実を結ぶようになってきた。74年12月には同協定の延長が確認された。あわせて「週休二日制等組合要求を否定しないこと」という条件が付け加えられた。
明けて75年政策課題はより一層前進していった。8月1日には関西の生コン製造および輸送会社38社の代表との間で政策懇談会が開催された。生コン支部からは、同会開催の趣旨が告ぎのように説明された。第一に独占本位の経済政策によって労働者は失業、中小企業は破倒産に追い込まれていること。第二に労使共通の情勢認識にもとづいて、共通課題について政策一致をはかること。
当時、企業(特に独占資本)と一部悪質勢力からは「全自運ができれば企業が潰される」とか「共産党の手先だ」との思想攻撃がくりかえしされている最中のことである。懇談会の設置と、協力共同してのせいかの実現はこうしたデマ宣伝を打ち砕くのに役立った。当日、生コン支部が「労働者と中小企業の共通の利益を守り発展」させるために提起した具体的内容は以下の如くである。
先ず大前提として今日の情勢下では中小企業各社の個々の努力のみででは解決できない多くの問題-金融、財政、税制、セメント・背年コン・商社との関係-がること。従って第一にセメントメーカーと背年コンに対する主体性、自主性を確立し、商社のピンハネをなくすこと。対等取引関係を確立し、業界として自立する条件を整備するため協同組合化に努力し、共同受注・共同販売の方向を検討すること。第二に労働条件、賃金の統一かをはかり、雇用問題については協同雇用責任を明らかにすること。優先雇用、希望退職条件、雇用基金制の確立。第三に労働基本権をはじめ諸法律を守り、一切の不当労働行為について協同してその排除に努める。第四に組合は中小企業の実情を理解し、ゼネコン・セメントメーカーの圧力についてもその排除に努める。
この懇談会以降、生コン支部は各社にこの政策課題の実施を求め、同内容の確認書への同意を呼びかけた。これに対し各社は一企業だけでは困難であるとして、24社の意見調整のための政策委員を選出して、組合との交渉にあたった。
企業からの回答(75年秋)は、第一にセメント・生コンの体質改善、第二に当面、失業状態の全自運組合員の共同雇用保障(日々雇用)、第三に自由と民主主義擁護のため労使協力というものである。回答の第二点がいわゆる優先雇用の統一協定化であり、「朝日分会」の結成・前進につながるものであるが、それも含め一定の評価できる回答である。
生コン24社との間での解決にはも早、限度があるという認識から、これ以降生コン支部は24社の背後にいるセメントメーカーへのとりくみを強めることとなる。11月からセメントメーカーおよび各行政機関への申し入れがはじまっていく。
このように、75年8月の政策提起は今日までの生コン支部の政策の基本を定式化し確立したものである。

 

第2章 第3節 優先雇用協定化から朝日分会結成へ
                     1973年~1978年 に続く

                                ←前のページ   次のページ→


→このページのTOPへ

→HOMEへ

全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部

〒550-0021 大阪市西区川口2-4-28
TEL06-6583-5546 FAX06-6582-6547
E-mail web@rentai-union.com
個人情報の取り扱いについて 及び プライバシーポリシー