◆ 現場での出会いが組合活動の楽しみ ◆ Yさん(愛称ヨネちゃん)は、1997年6月に連帯労組に加入しました。 当時、会社の提示した合理化案に、加入していたK労組は何もできませんでした。そこで見切りを付け、「闘う労働組合に移行しよう」と決意したのが加入の動機です。 ちょうどその頃、連帯労組の組合員にオルグされており、彼らに連絡して役員を呼んでもらい、即加入に至ったとのこと。 「組合活動での一番の楽しみは、普段は訪れない色々な場所に行くこと。そこで出会った人たちと話をして互いの情報を交換することが本当に楽しい。平和学習で沖縄にも行くことができた」とヨネちゃんは笑顔で語ってくれました。 唯一心残りなのは、電話に出られなかったがために中央本部の大会に参加できなかったことだそうです。(笑) 最後に、「若い組合員には、活動の中で自ら楽しみを見つけて欲しい。そして、他労組・他団体との交流を深め、柔軟な発想力で新たな運動を進めることが必要。組織には、労働条件を向上させるために生コンの労働組合の一本化と生コン輸送会社の一本化を進めて欲しい」とメッセージをくれました。 【 2012年南大阪平人沖縄現地学習に参加 】 ◆ 沖縄の基地建設反対運動に参加して ◆ Sさんは、1980年8月に兄と二人で運輸一般に加入されました。 その後、会社が倒産になり交渉を重ねてきましたが、要求が前進しなかったことで、1990年に連帯労組への加入を決意されました。 その後、2008年に現在のN生コンに就職されました。 「心に残っている運動は、N交通の闘争です。 初めて会社の前に行き、スクラムを組んでストライキを敢行したのが一番の思い出」だそうです。 「もう一つは、沖縄辺野古基地建設反対の現地闘争に8月24日から一週間参加したことです。海と陸の闘いの違いが印象的で、ゲート前での座り込みでは住民たちの熱気に圧倒された」とのことです。 また、海でのカヌー隊に参加して、慣れないカヌーでブイの近くまで行き抗議行動を行い、最終日には海保に腕をつかまれ、拘束されそうになったそうです。 住民たちの熱い闘いに感動し、「機会があればまた運動に参加したい」「できれば永住したい」と思われたそうです。 今期も北大阪Bブロック長として、新役員の執行委員とともに活性化に向けて頑張っていきたいとメッセージをいたただきました。 ◆ ショベルカーに轢かれそうにもなった ◆ Tさん(愛称タケチョー)が、連帯労組に加入したのは、タケチョーさんが26歳の頃です。 その頃勤めていたK運輸には社内で主(ヌシ)のような配車係がいて、配車差別などが当たり前、事故を起こせば干される、文句を言えば歩合の低い所にまわされるなど、誰も文句を言えないような抑圧的な職場だったそうです。 当時、タケチョーさんの奥さんの叔父さんが連帯労組の組合員で噂を聞き「働きやすい職場にしよう」と決意して加入を決めたそうです。 公然化後は、社内で積極的にオルグ活動し、3人の仲間を組合加入に導いたそうです。その内の一名が坂田副委員長だったということには驚きました。 組合活動での一番の思い出を聞くと、加入後すぐの、A生コンの争議を挙げました。ピケを張っていると、そこの社長が乗ったショベルカーが突っ込んできたそうです。「とんでもないトコに入ってしまった、死ぬかと思った」そうです。(汗) 当時は労使双方が激しい争いをしていたのだ思い知らされました。 「組合活動を続けると、色々と大変なことがあります。けれども、一人で何もかも抱え込むのではなく、助け合い、支え合うのが労働組合です。周りを見渡せば多くの仲間たちが居ます。時には仲間に助けてもらい、困っている仲間には手を差し伸べる。仲間を信頼することが重要です」とメッセージをくれました。 (くさりより)
◆ 現場での出会いが組合活動の楽しみ ◆
Yさん(愛称ヨネちゃん)は、1997年6月に連帯労組に加入しました。 当時、会社の提示した合理化案に、加入していたK労組は何もできませんでした。そこで見切りを付け、「闘う労働組合に移行しよう」と決意したのが加入の動機です。 ちょうどその頃、連帯労組の組合員にオルグされており、彼らに連絡して役員を呼んでもらい、即加入に至ったとのこと。 「組合活動での一番の楽しみは、普段は訪れない色々な場所に行くこと。そこで出会った人たちと話をして互いの情報を交換することが本当に楽しい。平和学習で沖縄にも行くことができた」とヨネちゃんは笑顔で語ってくれました。 唯一心残りなのは、電話に出られなかったがために中央本部の大会に参加できなかったことだそうです。(笑) 最後に、「若い組合員には、活動の中で自ら楽しみを見つけて欲しい。そして、他労組・他団体との交流を深め、柔軟な発想力で新たな運動を進めることが必要。組織には、労働条件を向上させるために生コンの労働組合の一本化と生コン輸送会社の一本化を進めて欲しい」とメッセージをくれました。
◆ 沖縄の基地建設反対運動に参加して ◆ Sさんは、1980年8月に兄と二人で運輸一般に加入されました。 その後、会社が倒産になり交渉を重ねてきましたが、要求が前進しなかったことで、1990年に連帯労組への加入を決意されました。 その後、2008年に現在のN生コンに就職されました。 「心に残っている運動は、N交通の闘争です。 初めて会社の前に行き、スクラムを組んでストライキを敢行したのが一番の思い出」だそうです。 「もう一つは、沖縄辺野古基地建設反対の現地闘争に8月24日から一週間参加したことです。海と陸の闘いの違いが印象的で、ゲート前での座り込みでは住民たちの熱気に圧倒された」とのことです。 また、海でのカヌー隊に参加して、慣れないカヌーでブイの近くまで行き抗議行動を行い、最終日には海保に腕をつかまれ、拘束されそうになったそうです。 住民たちの熱い闘いに感動し、「機会があればまた運動に参加したい」「できれば永住したい」と思われたそうです。 今期も北大阪Bブロック長として、新役員の執行委員とともに活性化に向けて頑張っていきたいとメッセージをいたただきました。
◆ ショベルカーに轢かれそうにもなった ◆ Tさん(愛称タケチョー)が、連帯労組に加入したのは、タケチョーさんが26歳の頃です。 その頃勤めていたK運輸には社内で主(ヌシ)のような配車係がいて、配車差別などが当たり前、事故を起こせば干される、文句を言えば歩合の低い所にまわされるなど、誰も文句を言えないような抑圧的な職場だったそうです。 当時、タケチョーさんの奥さんの叔父さんが連帯労組の組合員で噂を聞き「働きやすい職場にしよう」と決意して加入を決めたそうです。 公然化後は、社内で積極的にオルグ活動し、3人の仲間を組合加入に導いたそうです。その内の一名が坂田副委員長だったということには驚きました。 組合活動での一番の思い出を聞くと、加入後すぐの、A生コンの争議を挙げました。ピケを張っていると、そこの社長が乗ったショベルカーが突っ込んできたそうです。「とんでもないトコに入ってしまった、死ぬかと思った」そうです。(汗) 当時は労使双方が激しい争いをしていたのだ思い知らされました。 「組合活動を続けると、色々と大変なことがあります。けれども、一人で何もかも抱え込むのではなく、助け合い、支え合うのが労働組合です。周りを見渡せば多くの仲間たちが居ます。時には仲間に助けてもらい、困っている仲間には手を差し伸べる。仲間を信頼することが重要です」とメッセージをくれました。
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