南大阪平和人権連帯会議・泉南地域は6月10日~13日、米軍基地撤去運動と沖縄戦の歴史を学ぶ沖縄現地学習会を行った。生コン支部からはN執行委員とT組合員(東大阪ブロック)が参加。読谷村・集団自決跡地見学のほか、辺野古・海上新基地建設反対座り込み運動『命を守る会』を激励するなどした。報告:T組合員
<3泊4日の学習会> 南大阪平和人権連帯会議の沖縄現地学習会に、連帯ユニオンから私とN執行委員の2名が参加させていただきました。 6月10日、伊丹空港から那覇空港に到着。最初の訪問地は嘉手納(=かでな)町で、「基地のなかに町がある」と言われています。戦前は北谷村(=ちゃたんそん。現在の北谷町)と一緒の村でした。この地にある米軍基地は1945年の沖縄戦終了後に村の中央部を米軍が接収した巨大な嘉手納基地です。村は南北に分断され、北谷村は北の嘉手納町(米軍基地83%)、南の北谷町(米軍56%)となりました。 <爆音響く基地の近くは窓も開けられない煩さ> 基地は一日中ジェット機(輸送機、戦闘機など)が爆音を響かせて離発着を繰り返しています。住民はその爆音がうるさくて窓が開けられないので、夏場はクーラーを動かすことになります。こういった無駄な電気代は個人負担です。米軍に〝思いやり予算〟で1,200億円も政府が拠出しているのに、米兵が日本の少女を襲ったりしても、基地内に逃げ込んで『日米地位協定』を盾に警察に出頭して来ないそうです。こんな話しを聞くにつけ、米軍は一日も早く日本から出ていってほしいと思いました。 次に読谷村(=よみたんそん)にあるチビチリガマ(ガマ=壕)に向かいました。 1945年4月1日、米軍は沖縄本島の読谷・北谷の海岸から6万人の兵士を上陸させました。米軍の砲撃から逃れた141人がチビチリガマに隠れましたが、米軍の捕虜になるのを恐れて、4月3日その壕内で『集団自決』をし、85人が絶命したそうです。ガイドさんの説明を聞いて黙祷をしました。 <自然豊かな辺野古の海/基地建設で破壊許せない> 6月11日、『命を守る会』の案内で名護市の辺野古へ向かいました。 ここでは天然記念物のジュゴンが生息する大浦湾を埋め立て、普天間基地の移転先としてV字型滑走路を建設する計画が進められています。 日米政府が天然記念物のジュゴンよりも日米同盟強化のために、自然豊かな辺野古の海を破壊するなど許せません。私たちは〝美ら海〟の辺野古海岸を見学して、基地建設反対運動の支援を確認しました。 <魚雷で沈没、かん口令布かれた〝対馬丸事件〟> 6月12日、『対馬丸記念館』を訪問。1944年に戦況が急迫する中、日本政府は沖縄など南西諸島の老幼婦女子・学童の疎開を決定して沖縄県で10万人の疎開を命じました。 8月22日に沖縄から長崎へ向け航行中の学童疎開船・対馬丸は、悪石島付近で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没、乗員・乗客1,418人(うち学童775人)が犠牲になりました。戦争中、この事件はかん口令が布かれていたために一部の人しか知りませんでした。戦後数年して実態が明らかになったそうです。 この後、南城市玉城にある糸数壕(アブチラガマ)、糸満市伊原にある『ひめゆり平和祈念資料館』を見学しました。有名な『ひめゆりの塔』の下にあるガマに米兵が出入りして遺品などを持ち出したりしていたので、個人が土地を買って塔を建立したそうです。 <真の平和を得るために米軍基地は撤去すべき> 6月13日、首里城を見学しました。戦中、首里城には軍司令部が設置されていたために米軍が猛攻を仕掛け、完全に破壊されました。1992年に復帰20周年を記念して復元されましたが、現在も司令部壕が一部残っています。歓会門下の円錐のほとりに弾痕が生々しいコンクリート残がいが点在していました。 「戦争の愚かさを深く認識し、二度と同じ過ちを繰り返してはならない。そのためには米軍の居ない日本にしなくてはならない」と感じた現地学習会でした。(くさり7月号より)
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