(1994年11月発行「風雲去来人馬」より)


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第2章 政策課題と産別闘争の歩み


第9節 「奈良方式」の出発・確立と企業への政策対応
 1982年~1987年


協組の自滅と、対照的な「奈良方式」

当時大阪兵庫の生コン業界の混乱は目に余る。協同組合とは名ばかりで、アウト(協組合未加盟)が続出し、新増設による乱立に拍車をかけ、イン(協組内)企業はアウトとの競争にかち残るために価格切り下げの泥沼におちこみ、経営危機・企業倒産の淵に立たされた企業も少なくない。
それもこれも83年末のセメントメーカーによる工組・協組のっとりとその下での対労組敵視姿勢がもたらした混乱である。
これに反して「奈良方式」といわれる新しい協同組合の在り方が数々の成果をあげ、業界や労組の双方から注目を浴びている。これは労使が共同で解決せねばならぬ政策課題の一致~セメントとゼネコンという独占の収奪下にある生コン業界の自立~にもとづいて業界の安定と労働者福祉の向上をはかっていこうというものである。
こうした試みが過去に追求されなかったというのではない。1980年代初頭の大阪兵庫生コン工業組合との間で確立された集団的労資関係と、その下で生み出された数々の成果(32項目協定はその実現のためのプログラム)等が、そうした試みの成果であろう。
だから「奈良方式」とは大阪兵庫で試みられ未完のままの集団的労資関係の「奈良版」といった方がより正確であろう。
本節ではその「奈良方式」の経過や成果はじめ支部の政策闘争の具体化について論じよう。

業界の後進性が悪条件の原因

約2年間にわたる奈良闘争が解決・調印される過程で、支部の中で検討され具体化されていったのが「奈良方式」である。
今回の労使紛争を教訓として、何よりも紛争の主たる要因が奈良県の業界の後進性にある事、協組運営が名ばかりで過当競争が激しかった。そこで働く労働者は低賃金・長時間労働のもとにおかれていた。それも改善するとなると協同組合をたて直し、労働者も大阪並みの条件をとりうる環境を作って行こう、こういう共通する課題にとりくむ事で政策活動の重要性が労使双方で確認された。
82年以前の奈良の状態は文字通り前近代的労使関係の下におかれていた。大阪や兵庫での関生支部の長年の努力~73年集団交渉、75年中小企業政策の発表、以来の闘い~の結果つくりあげられた数々の成果と比べようもない。
賃金体系がバラバラ、休日なし、サービス残業、労災・社会保険がないという不安定な労働条件であった。
大阪・兵庫と比べて月に10万円もの収入格差があり、文句を言うとすぐクビになる位、権利がない。低賃金で喰えないから労働者の方は一円でも高い所を求めて、アッチへ行ったりコッチへ行ったり、生コン屋を股にかけて流れ歩いているという実態であった。業者にすれば安い賃金で何回も走らせた方が得なのであり、他所では評判の悪い「償却制」すらなかった程である。
このような奈良での悪条件の背景にはセメントの拡販競争の欲しいままに業界が大混乱させられている事があげられる。陥没価格という言葉があるように、大阪兵庫に比べて運賃はじめ手間ひまかけた奈良の方がセメント(生コン)を売りたいというセメント独占各社の思惑から安売り乱売戦がくり広げられていった。
生コン業者自身が井の中の蛙(かわず)であり、親分-子分意識が強く、地域閉鎖主義的であった為、よけいに業界混乱し、その結果は労働条件の低下につながっていた。
だから要求前進が可能になるような環境づくり=政策課題の実現が求められた。

労使協同の政策闘争で初勝利、新設阻止/86年1月

奈良での政策闘争のきっかけは大阪での関生支部の闘いの経験である。業界全体や関係他労組もまきこんだ集団的労使関係によって蓄積された労働条件とか32項目の成果を、奈良の地で作ろうと思えば様々な環境づくりが必要になるという認識からであった。奈良闘争の解決(84年12月)もそういう要請があったから実現したのであり、その翌85年4月頃から政策協議がはじまった。
業界の方も争議解決とともに85年3月、3つに分かれていいた協組を一本化し、新たに奈良県生コン協組を結成した。それから3年かかって奈良では32工場ある中で28社が協組に加盟し(89年1月/当時)、業界安定の下で値戻し(原価割れの克服)、適正シェア、品質管理にとりくみ、実をあげている。
労使の政策協議の中から生まれた最初の成果は香芝町の新設プラント建設阻止闘争である。生コン構改とは名ばかりで実際は新増設が進められているという状況下で、奈良ではD産業が85年10月から抜けがけ的にプラント建設を強行してきた。業界秩序を混乱させ、雇用不安をひきおこし、公害につながっていく。生コン業界も労組も地域住民も一体となって反対に立ち上がり、ついに建設を断念させた。86年1月20日D産業建設中のプラント撤去に入った。
これは「労組共通利益の擁護という一つの成果」(張本協組理事)であり、この上に第二回奈良県生コン労使懇談会がもたれ(86年2月26日)、以降定期化されていく。業界と労組が共通課題の遂行へ各自の責任を果していく、それぞれが主体性を発揮する事で政策闘争が進んでいった。

同盟選考低額妥結の突破と桜井闘争/87春闘

業界が中小企業としての主体性を発揮し業界としての自立をはかる事、これが政策闘争のひとつの目標である。セメント独占の言いなりになるのではなく、中小企業がリーダーシップをとって協組を運営し、セメント・骨材の共同購入、コストの平準化など協組としての事業を拡大する事。また個々の企業ではできない事業、産業福祉年金制度の確立、過剰人員の雇用の受皿づくり、工場の適正配置、品質管理等、生コン産業としての社会的地位を確立し高めていく事を労使共同事業として進めていかなくてはならない。
だが関生支部は業界の安定だけを自己目的化するものではない。業界安定めざす政策闘争を通じて賃金・労働条件の向上をはかることが目的なのである。
奈良闘争の反省をこめてモデル的な地域を作ろうという事から「奈良方式」が模索された。もともとのモデルであった大阪兵庫では83年以降、日本共産党による分裂策動で既得権が奪われ、協組や集団的労使関係が崩されていった。
そんな中で奈良では集団的労使関係は維持され発展して行った。毎年の春闘でも集交がもたれ高回答が出される。87春闘では同盟産労が低額先行妥結してもそれを上廻る回答をかちとる。87年2月に奈良一般から組織移行し公然化したS生コンの闘いは、この機会に奈良方式そのものを潰そうとする攻撃との闘いであった。5月23日支部の集中行動によってS社を追いつめ、ついに賃金是正・組合事務所設置等で勝利した(6月23日)。

奈良近代化委員会の発足/87年7月

「奈良方式」は生コン支部の主体的力量の確立によってのみ支えられる。生コン支部は10社70名(その内生コン9社で組織)に対し奈良一般3社、同盟産労3社、運輸一般はゼロである。関生支部の組織されている所はいずれも業界に影響力のある企業ばかりである。他方、直営工場は2社と少数だ。
だから労使共同の政策課題追求によって中小専業主導の労使運営も可能となってくる。
こうして87年7月、生コン産業近代化促進委員会が発足した。同会は「生コン産業の経営改善と労働者の雇用・福祉の増進を目的」としている。労使から選ばれた3つの委員会を設置し、「奈良方式」の更なる前進を具体化しつつある。
「奈良方式」の成果を再度整理すると、(一)数多くのアウト社の協組加盟を実現し協組組織力を高める事で市況の安定を実現、(二)業界混乱の因となる大阪・京都からの越境対策として自治体への「公共事業の協組加盟社への発注」はじめとした働きかけ、(三)新増設阻止-等を労使双方あるいは独自の活動で実現し、業界の自立・安定をかちとった事である。
奈良のこうした動きはセメント独占・直系主導の関西の工組・協組体制や業界のあり方を再検討する大きな動きにつながっている。
支部は奈良闘争後の雇用の受け皿として6社の責任で新会社を作る事を提案し、他に希望をつのって16人体制で出発する事が合意された。協組6社が仕事と車と資金を負担して新会社を作り、そこへ雇用するという訳だ。ところが協組が準備した経営者というのは経営方針に何のビジョンも持たず、情熱ももたない人物であり、このままでは幻の会社になる怖れが多分にあった。和解による新会社設立がそのまま倒産=退職につながってしまう。
支部の側の追及の中で、協組側は自主運営を提案してきた。こうして支部推薦の社長が迎えられ、この経営者との間に労働協約等がとり決められ、新会社が発足する事になる。
それがタT運輸である。協組の側が支部の力量低下を狙って「幻の会社」構想を提案してきたのを、組合側が逆手にとって新会社を組合主導で軌道にのせた一例である。

永和生コン(現・コーイキ)分会の経験

奈良方式が一協組を相手としたケースだとすれば、一企業でモデル的な工場づくりをしたケースがコーイキ輸送である。
関生支部の今日のような政策要求が定式化されたのが、75~6年の事である。その時期に結成された分会のいひとつに永和生コン分会(後に三永運輸分会-マツフジ分会-現・コーイキ分会)がある。永和商店(M会長)に労働組合、永和生コン分会が結成されたのは1976年である。当時はまだ、政策闘争に多くの実例があった訳ではない。
75年に生コン製造・輸送38社との間に初の政策懇談会を開き、支部から政策提起を行ったといのが、初の試みであり〝原型〟である。
三永分会はそんな時期に結成され、政策というのがまだ実態をもっていなかった頃に、その政策対応の第1号として具体化されていった。
その当時、支部組織が企業内に結成されると、先ず手はじめに提出される要求が、(1)過積載の即時撤廃、(2)賃金・労働条件の統一という2つであった。これらは生コン労働者にとっては喉から手が出る程、待ち望んだ要求である。と同時に資本力も弱い小規模の、競争力も充分でない専業社にとっては、これらの要求の一挙的実現など到底可能ではない。
支部、分会は職場討議の末、永和社の現状を判断した上で次のように対応した。第一に現状との兼ね合いで過積載については通念上の一定範囲で認めるが徐々に減らす方向をとる事を確認。過積載がなくなるまで2年位かかったが、ついには全廃した。第二に支部がこれまで獲得した賃金労働条件への統一については一気に一律化するという要求を下げて、その段階的実現をはかろうという事で合意した。
この第二点目の合意をうけて永和社の新会社設立を認める事になった。永和生コン商事を新たに作ってそこへ償却制の運転士を集めて、日給月給制だった分会の労働者と分離する事にした。
その後賃金労働条件を段々と改善していく中で、80年12月に輸送部門の労働者が組合の下に統一された。これをうけてそれまで償却制の下におかれていた永和生コン商事の労働者もそれを廃止し、雇用も永和商店の下へ一本化されるようになった。
この時、永和の営業範囲が市内協と北協に分かれていたので、製造部門を分離して、それぞれ永菱と東淀に分割する事になった。輸送部門の方は三永運輸という形で統一して担当する事になった。分会名称も三永運輸分会と改められた。

暴力団を背景に組合つぶし、業界のっとり(S社長と「民主化グループ)

この時期に力をつけはじめた組合を潰す為に永和商会(M会長)が経営陣に導入したのがS氏である。初めに三永運輸の社長に、次いで永菱と東淀の社長に就任した。
S氏は生コン支部事務所を訪れた際(81年7月下旬)に、「自分は暴力団のI会もよく知っている」とか、74年の片岡運輸でのUさん殺害事件の犯人の1人である「Sの面倒を見た。自分は裏街道にも顔がきく」との言辞を弄し、暴力団との関係を背景に組合へ圧力をかける言動をくりかえした。その後も他所からもS氏と右翼暴力団Y会との接触についても伝えられた。
このS氏が手はじめに行った事は工組・協組内の労組敵視姿勢の強い企業と手を組んで「民主化グループ」を結成し、生コン業界でようやく確立した集団的労使関係を叩きつぶす事であった。手はじめが81年夏の一時金支払いをめぐって、政策協力金をとりあげ「ヤミボーナス」だとか「工組と労組の密室交渉」であると攻撃し、自分たちに都合のよいように言いなりになる工組体制を作ろうとする策動であった。背景にはセメント独占の意向も濃厚にチラついていた(本章第7節、第3章第11節)。
民主化グループの首謀者S社長の経営する三永では、分会が永和グルーぴや業界全体の民主化という観点からS氏退陣を要求して9月末から2週間近くストを打ちぬいた。この闘いそのものは10月初に会社の方からの反省を主とした協定がむすばれて解決した。
だが解決したというもののS氏は依然として社長職にとどまり、業界内では「第一ラウンドが終わっただけ」とやがて紛争の再燃が必至であるとの噂がとびかった。
その後もS社長は暴力団Y会(山口組M会)と組合つぶしの相談を行ったり、中央探偵社を使っての組合員素行調査を実施したりした。労組への敵対だけではない。業界の混乱をも画策しはじめた。

暴力経営者の退陣とモデル的な工場づくり

当時は構改事業が本格化しはじめ設備の共同廃棄の対策に頭を悩ましていた時期である。そんな時期に、市内協にエリアで千石生コン(阪南産業)新増設問題がもち上がり、それにS社長が深く関わり協組運営に横やりを入れようとした。
S社長の一連の行為は業界混乱、労組敵視そのものであり、ひいては生コン業を暴力団の資金源と化そうとするものである。三永の職場要求、とりわけ公害排除、場内整備の要求も殆ど未解決だ。
「第二ラウンド」は82年2月4日から26日にかけてのストライキである。当初はペンペン草が生えても譲らないとしていた永和グループは、地域からも高まる暴力団との癒着への批判もあり、ついに2月28日M会長との間で解決にこぎつけた。内容はS社長の退陣であり、今後は安定した労使関係を築こうという点で合意した。
今後の労使関係を正常化してモデル的な工場にして行こうという事で握手して別れた。そんな形での解決をみた。
ところがその翌日、機動隊を連ねて職場が強制捜索された。暴力団と名指しした事が「名誉毀損」であり、その退陣要求が「強要」であるという、S社長の告訴によるものであった。労使自主交渉で解決した事への警察の介入である。
この弾圧はセメントの意をうけて総攻撃の一環でもあった。結局「三永事件」単独で武委員長はじめ12名が逮捕され、5名が起訴された。
分会員も多くが逮捕・起訴されたが、三永分会の団結は固く1名の脱落も出なかった。この弾圧をはね返した分会の力をみて、永和グループ(M会長)も基本的に組合潰しや敵視姿勢をとる事を断念。又、Sの正体を知って暴力団による企業ののっとりを未然に防いで、今では労組に感謝している程だ。

経営陣の民主的刷新、マツフジの発足
ストライキの解決以降、三永での労使関係はおおむね安定して今日に至っている。
その後永和グループは労務問題をきりはなす為、輸送部門を分離し、社名変更・新会社を設立する意向を表明した。そしてこれを機に多角的経営にのりだそうとした。1986年の事である。
社名の変更は経営形態の変化につながる。新しい経営陣との間でこれまでの労働条件や労使関係の在り方が継承されるか否かは、労働組合にとっては大問題である。特に三永の場合は81~82年のS退陣要求争議の際の解決過程で、「民主的な労使関係のモデル工場をつくる」という合意がある。新会社とその経営陣との間でかかる労使関係、合意を再確認せねばならない。
こうして三永分会と永和商店との交渉をふまえて、1986年1月新会社「マツフジ」が発足した。経営陣の民主的刷新の実現に成功した。労使関係の安定をはかり、業界秩序の民主化の第一歩を印した。(なお、(株)マツフジは94年8月、(株)コーイキ輸送として新たに発足)
奈良方式の場合は一つの協組全体を対象とした政策闘争の成果であるが、このマツフジの場合は個別の企業の中で安定した労使関係が定着したモデルケースだ。かかる成果の実現に至長い道のりの間には数々の経験~政策対応からの出発、職場民主化の為の苦しい争議、等々~をくぐり抜けての事である。
 

第2章 第10節 90年代の飛躍的な運動の前進をめざして に続く

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