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戦前の「大阪労働学校」のゆかりの地を探索する(8)

著:本山美彦(大阪労働学校・アソシエ 学長)  

 藤永田造船所の前身、兵庫屋は、安政元(1854)年、紀州藩の御座船(ござぶね)の建造を受注したことを契機に、江之子島敷屋町に移転した。  

御座船は、江戸時代より前には、天皇・公家・将軍・大名などが乗るための豪華な船のこと。河川用(川御座船)と海用(海御座船)があった。とにかく、けばけばしく飾り立てた自己顕示用の船であった。  

 しかし、江戸時代になって、五〇〇石積み以上の大型船と軍用船が禁止されたので、各大名たちは、「関船」(せきぶね)を不必要に華美に仕立てた海御座船に擬して、事実上の軍用船に使っていた。保有禁止令を出したはずの徳川将軍家も、御座船に偽装した関船(「天地丸」)を持っていた。  

 関船は、日本の水軍で、戦国時代から江戸時代にかけて使われていた中型の大きさのものである。大型の軍用船は「安宅船」(あたけぶね)と、小型は「小早」(こはや)と呼ばれていた。関船は、速力が出るので機動力に優る。今風に言えば、安宅船は戦艦、関船は巡洋艦、小早は駆逐艦である。  

 関船の名称は、瀬戸内海の水軍が、他の船舶に乗りつけて通行料を徴収する水上の関所としての役割に適したことに由来があるようだ。『日葡辞書』には関船(xeqibune)を「海賊船」と説明している。  

 関船の構造は、艪(ろ)の数、40~50挺(ちょう)、鋭角的で長い船首、船体を木製装甲で囲うというものであった。戦闘時には、帆柱を倒して艪によって航行する。  

 一方の安宅船は、室町時代の後期に日本で広く用いられた軍船で、巨体で重厚な武装を施しているため速度は出ないが、戦闘時には数十人の漕ぎ手によって推進され、数十~百数十人の戦闘員が乗り組むことができた。  

 小早は、艪の数は40挺以下で、戦闘能力は低い。しかし、織田勢に与した九鬼水軍は、小早の軽快な機動力を活かして偵察や伝令などの用途に用いたとされる。毛利水軍や村上水軍などは焙烙(ほうろく=素焼の平たい土鍋)火を主要武器として用いていたため、小型・快速の小早が主力艦であった(石井謙治『和船 II』法政大学出版局、1995年〉。  

 幕末に紀州藩から受注した御座船はまず、軍用船であったと見なしても誤りではないだろう。

■大戦景気で造船業は世界三位まで急成長■  

 兵庫屋が移転した「江ノ子島敷屋町」(現在の江之子島一丁目七辺り)は、埋め立てられる前は、「阿波座堀敷屋町茂左衛門橋」のあった所で、毎年四月の酉(とり)の日に「亀祭り」が催されたことで有名である。昔、この橋のたもとで捕獲された五尺余りの大亀が西国地方の漁師たちを呼び込み、町が平和になったという逸話から出た祭りである。これも数多くある靱(うつぼ)伝説の一つである。  戦後は三井造船に吸収合併されたが、藤永田造船所は300年ほど続いていた長い歴史を持っていた。  

 1919年までの日本は、第一次世界大戦の特需景気(大戦景気)で、繊維・造船・製鉄などの製造業や、海運業が大いに発展し、アジアで販路を急速に拡大していた。輸出が伸び、日本は、これまでの債務国から債権国に転じた。造船業は世界第三位に躍進した。

■不況で解雇が相次ぎ3千人がストライキ■

 しかし、1920年代に入ると大戦景気の反動による不況に見舞われ、とくに船舶が過剰になったことによって、造船業界は苦境に陥り、造船の職工たちの解雇が相次いだ。労働条件が急速に悪化させられてきたことへの労働者による反抗が、ロシア革命の刺激を受けた労働者によって、急速に盛り上がった。  

 歴史上の記録に残る日本初の大争議が、藤永田造船所で起こった。1921(大正10)年5月27日からヵ月間、同造船の労働者たちが、ストライキとデモを決行したのである。発端は解雇への抗議であった。  
 同造船所の労働組合は、争議以前からすでに組織されていて、もともと、14支部700名の組合員を擁していたが、争議に突入後、3,000人もの職工がストライキに参加した。  

 当時、労働三権というものはなく、労働組合には団体交渉権が保障されていなかったので、ストを決行した労組員たちが会社に提出した嘆願書には、団体交渉権を獲得することが重要な項目に挙げられていた。これを蹴られた組合側が新たに「要求書」を提出し、会社はそれを拒否するということが繰り返された。  

 この争議を指導したのは、友愛会の西尾末広(にしお・すえひろ、後の民社党初代委員長)たちであった。幹部が大勢、警察に検束され、労組員も半減するという大きな犠牲の上に、団体交渉権は部分的に認められ、同年6月27日に争議は決着を見た(渡部徹・木村敏男監修『大阪社会労働運動史・第一巻・戦前篇』上、有斐閣、1986年。『藤永田造船労働運動史』藤永田造船労働組合運動史編集委員会、1970年、『藤永田278年』藤永田造船所、1967年)。

 政府は、盛り上がる全国の労働争議を前にして、ILO(国際労働機関)に派遣する労働代表を公選制にした。これを追い風に、1923年末の労組員数12万人強が、1年後には23万人弱にまで増えた(ただし、その中には、「海軍工廠」の共済組合が海軍の指示で労働組合に衣更えした4万人強も含まれていた)。


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