(1994年11月発行「風雲去来人馬」より)


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第1章 関生支部が生まれた「あの頃」


第3節 産別闘争の追及と政策闘争
低賃金・無権利・「タコ部屋」の前近代的職場
生コン支部が結成される(1965年)以前の生コン輸送労働者の状態は、低賃金・長時間労働であり、労働基準法のカケラもない状態、一言でいって「タコ部屋」であり、それを維持するための暴力的労務管理であったと特徴づけられよう。
残業は月に200時間をこえ、年間休日は日曜も含め2~5日。会社の名ばかりの「仮眠室」で少しばかりの睡眠・休憩をとって、何日も家に帰らずに、朝星・夜星を仰ぎながらの連続勤務につき、弁当も信号待ちや積み込みの間にミキサー車の運転席でかきこむという毎日であった。こうした劣悪な労働実態を強いたのが業界独特の体質ともいうべき暴力的労務支配である。暴力団を導入して一言も物を言えないという状況を続けてきた。
そんな中で産声を上げたのが、関西地区生コン支部(当時、全自運/全国自動車運輸労働組合)である。
支部結成後の7年間というものはこうした前近代的な職場の状態を改善し、賃金・労働条件の向上・確立と、労働組合活動の認知を求めて闘われてきた。あまりにも無権利な労務支配がまかり通っていた。組合を作ろうとすると、その気配がしただけで、経営者は直ちに組合切り崩しに入り力づくで、あるいは「金」をチラつかせてくる。それでも成功しないとなると、次はお定まりの暴力である。警察・自衛隊あがり、または暴力団にも籍のある職制がやってくる。建設現場特有の気の荒さもあって経営者から言い含められた現場の親方、さらには下請のダンプ運転手(「一人親方」が多い)等が組合員をとり囲み脅しつける。
生コン支部創世記はそんな「男と男の身体をはった勝負」でいろどられている。30年間の多くの先輩や仲間達の血と汗でつづられた。ともかく当初183名で出発した支部は、最盛時には3200名を数え、その後権力弾圧と日本共産党の介入・分裂攻撃による腹背からの組織破壊攻撃をうけながらも、現在、全国産別組合「全日本建設運輸連帯労働組合」の下で1900名の組織を確立している。
闘いの中で勝ちとった数々の成果

ここでは簡単に30年間の闘いによって勝ちとった闘いの成果を列挙する。
第一に、何よりも高水準の賃金・労働条件の獲得である。賃金については現在、イン工場労働者で基準内賃金が43万円、これに最低補償を入れると年収約800万円の収入となる。休日は年間106日(94年当時)。さらに支部の各級機関会議への参加は有給補償、時間内組合活動の自由、組合事務所の設置等組合活動の補償等。どれ一つをとっても親会社のセメント労働者を上まわるものであり、同業多労組と比較しても高額・高水準の条件確立をしている。先に生コン職場を指して「低賃金・長時間労働」の代名詞、「タコ部屋敵労務管理」というように形容したが、30年後の今日、隔世の感がある。
第二にこれまで暴力的支配や警察の権力弾圧をはねのけての闘いの歴史であったとはいえ、結局その本質は生コン企業を下請・孫請として防波堤に仕立てたセメント独占との対決であった。セメントメーカーは5グループ21社で市場を100%支配し、その清算されたセメントの7割は生コンとして販売されている。「生コン販売がセメント販売の主力」(三菱鉱業『社史』)であり、生コンを安全弁として利用しているセメントメーカーの側にこそ、生コン業での労働問題の最終責任がある。支部の闘いはこの背景資本としてのセメント独占の責任を明確にし、使用者概念を拡大するものとして裁判所や地労委で次々と確認され、責任追及の運動を展開してきた。
第三に個々の企業の経営者との間の個別協定にとどまらず、広く生コン業界全体との間での産業別協定の確立にまで発展させてきた。生コン経営者が加入する工業組合との間に交渉権を確立し(80年)、翌年には組合の組織されていない企業も含めて経営者が工組にたいし交渉権・協約締結を一任。その工組との間で労組側代表団(支部、同盟、全港湾など4労組で構成)が交渉するという集団交渉が実現した。
この集団交渉は、その後セメント独占と警察、日本共産党の一体となった攻撃で中断(注:94年当時/96年再開)しているが、数々の成果をあげてきている。「雇用の確保、福祉の充実」等を内容とした32項目協定は一部が履行されただけで、大半は工組の側の約束不履行で終わっているが、大阪地労委では「この協定を課題とした団交命令」が出て(1985年8月22日)、支部の主張の正しさが確認されている。
第四に構造改善事業による工場廃棄に伴う労働者の雇用責任を工組がとること(連帯雇用保障)や、優先雇用協定による失業・日々雇用労働者の雇用確保など、雇用を守る闘いも大きく前進してきた。

単一の業種別労組・統一司令部の形成
ここで列挙した数々の成果をもたらしたその要因は、単に支部の闘争路線によるものだけではない。より大きな要因はそのような闘い方と成果を可能にした組織論であり、もうひとつは政策闘争の優位性にある。
生コン支部は出発点から産業別闘争を重視してきた。そもそも労働組合が企業単位に分断されて組織されているために、日本の労働組合運動は企業経営者の言いなりになってきた。企業間競争に労働組合がまきこまれ、際限なく合理化に協力させられる。企業間競争に勝つためには賃金が減らされ、労働条件が悪化してもやむを得ない。まして企業の枠をこえて、労働者階級全体の共通利益を守ることなど及びもつかない。
この限界をこえるためには、労働組合が産業別の視点をもたなくてはならない。支部の結成それ自体が生コン共闘時代からの弱点の反省と克服のためであった。
65年の関西地区生コン支部の結成は、初めから個人加盟の産業別労組、より正確にいえば単一の業種別労組の結成であり、企業側の個別撃破・分断攻撃と対決しうる統一司令部の建設であった。執行権は全て支部に集中し、分会における活動と支部における活動というものをそれぞれ分担して、分会における運動・要求・課題は職場における安全、衛生管理、職場における安全、衛生管理、職場環境の改善等を軸にして、支部の取り組む課題は産業全体に影響を及ぼす課題・要求に分けている。そして指導の原則は統一要求・統一交渉・統一行動を軸において一切の闘いを展開してきた。
こうした産業別運動の進展により、ついに集団的労使関係を形成し、統一した労働協約の締結に成功したことは前述のとおりである。
また労使関係から生じる一切の問題を企業内におしこめようとする資本側の労務政策と真っ向から対立することになった。そして、80年移行の日経連・警察の全力をあげての関生支部への集中攻撃と日本共産党による組織分裂攻撃は産別闘争を展開し、大きな成果をあげた生コン支部に対する相手側の脅威を示している。
政策課題の実現による業界安定

産業別闘争の取り組みにとって欠かせない位置をもつのが、政策課題のとりくみである。
生コン産業は、その誕生の時点からセメント産業の下請けとして、「セメント販売の手段」として従属させられてきた。あわせてユーザー(消費者)である建設業界はゼネコンと呼ばれる建設独占資本の圧倒的支配下にある。セメント独占とゼネコンからの二重の締めつけの下で、生コン業は産業として自立できず、経営環境が不安定のまま放置されてきた。
賃金・雇用・福祉というどれひとつをとっても個々の企業の枠内での解決には限界がる。先に述べたようにセメントメーカーによる原料価格の支配と、他方での建設業界の横暴とによって言いなりになるのではなく、生コン業界が全体として業界としての自立を果たさない限り、経営安定もなければ、労働条件の改善すらありえない。生コン産業が互いに企業の乱立と安売り競争の中で共倒れになっていくのではなく、中小企業と労働組合の結束を通じ独占資本との間に適正価格、対等取引関係の確立はじめ、自立の道を探っていくことこそが、最大の課題である。
生コン支部が追及してきた集団的労使関係の構築と政策課題の提起こそは、他面で生コン業界が工業組合-協同組合の下に結束することを促し、可能にしてきた。そしてセメントメーカー、ゼネコンによる独占支配系列下で業界の経営と雇用の安定をはかる道であり、中小企業の経営者と労働者の双方にとっての利益であることが確認されるようになった。
次章では生コン支部の産業別統一闘争と政策課題について、30年の歴史の歩みに即して追ってみたい。

 
第4節 生コン支部、最初の7年 1965年~1972年
生コン共闘会議結成にいたるまで
大阪地方における生コン事業は1953年(昭和28年)の大阪セメント佃工場の創設にはじまる。当時の日本経済は朝鮮戦争の特需ブームで敗戦の打撃から立ち直り、重化学工業の本格的確立に向かう〝日の出の勢い〟であった。50年代末期には設備投資の活発化、建築ブームに乗って、大阪湾岸にセメント基地と併設して生コンプラントが次々と建てられた(第2節参照)。
この時期、生コンは「作れば売れる」という大口需要に過熱した。需要があればそれに合わせて生コンが練られて現場へ運ばれる。早朝から深夜まで、休日も返上しての操業の毎日であった。「夜星、朝星を見上げて」のくりかえし。そしてセメント・生コン産業の資本家にとっては「輸送費の圧縮こそもうけの源泉」であった。
生コンミキサー運転手にとっては長時間・低賃金・無権利の劣悪な労働実態が状態でもあった。
このような中で労働条件の向上と労働者の地位向上をめざして全自運の支部が結成されるに至った。1960年以前には大阪地方での生コンプラント数はまだまだ少なく、約10社あまりであったが、此花(後の関扇)、アサノ、イワキ(近畿生コンの前身)、東海運に支部が作られていた。この他に1955年4月に結成された共同組労組(後に三生佃支部)という企業内労組が存在した。
この全自運傘下の此花・アサノ・東海運の三者共闘会議を母体にして、60年8月には「大阪生コン輸送労組共闘会議」が結成され、これには梅田イワキ支部(後の近畿生コン)も参加していた。この生コン共闘は全自運の旗を掲げて統一要求・統一行動・統一交渉・統一妥結を原則に闘ってきた。その中で一方で全国生コン共闘(62年結成)が、他方で全自運非加盟の組合もふくんで関西生コン労働者協議会(63年)が結成され、横の連帯が広がっていった。
このような生コン共闘の闘いをセメント資本は手をこまねいて見ているはずはなかった。64年頃から関西扇・イワキ・三生・東海運に対し組合潰しの激しい攻撃がかけられてきた。
関西地区生コン支部の結成/65年10月

こうしたセメント資本による攻撃に対しいくつかの支部では、「この攻撃はセメント資本による生コン労働者全体にかけられた攻撃」として捉え、闘う事が方針かされた。しかし資本の側の巧妙な分断と各個撃破の攻撃の前に統一した闘いとならず、困難を極めた。
生コン共闘は、それぞれが企業別に組織され、別個の指導機関をもっており、そういう企業別支部(組合)の連絡機関であった。だから個々の闘争を統一的に指導亜する事ができず、いくつかの支部において企業の枠にとらわれた対応がみられた。産別統一闘争を追及した生コン共闘の役割をうけつぐと共に、こうした企業内主義的な弱さを克服するために、個人加盟原則とした統一的指導機関として「関西地区生コン支部」の結成をめざす活動がはじめられた。1965年の春闘直後であり、6月に結成準備会(武建一準備委員長)がつくられた。
65年10月17日、個人加盟を原則として関西地区生コン支部が結成された。これに参加した全自運の支部は次の5支部であり、総数183名である。
・全自運三生運送佃支部
・全自運三生運送千鳥支部
・全自運三生運送和歌山支部
・全自運三生運送苅藻島支部
・全自運豊英支部
ここで三生運送内に同じ全自運の支部がバラバラに4つの支部を作っている事に、気がつくだろう。当時、三生では事業部制をしいて独立採算制をうちだしており、その事業部ごとに競争心をあおり、そのため作業能率をあげようと職制達はやっきになっていた。組合の側ではそれぞれ独立した機関をもっていた為に方針が徹底されず、要求実現に困難が生じていた。
三生の4支部だけではない。当時生コン関係だけで全自運に10支部があったが、統一対応を追及すると「要求や妥結を弱い所にあわせて高揚をおさえている」と批判が上がってくる。逆に組合の力が不十分な支部からは「組織の現状にあわない方針」との声も出る。
資本の仕切れ綱攻撃に友好に反撃するための手だてとして、どうしても単一の組合に結集する事が求められていた。全自運が方針や決定能絵でいくら「個人加盟による単一化」を定めていても、現実には何ら機能せず、いくつかの企業内組合(支部)の連合体でしかないという現状が立ちはだかっていた。
こうして統一的指導機関たるべく、議決決定権をもつ執行機関を有する機関として関西地区生コン支部が結成された。

〝めしと団結〟関扇闘争/64年
関生支部結成にあたって、その前身ともいうべき生コン共闘の牽引車的存在であった関扇支部は、自らが企業閉鎖・全員解雇攻撃をうけているという理由で、それへの参加をみあわせた。誕生間もないヨチヨチ歩きの関西地区生コン支部にとって、関扇の闘いを担い、支部の指導下に闘いを勧めて行く事は、その力量に余る事であった。生コン労働運動の〝先駆け〟として、関扇支部は自らの闘いが関西地区生コン支部の重荷になる事を危ぶんでいた。「うちの闘いは長期化するだろうし、本格的な闘争に入っていく中で関生支部に入って行ったら全体の〝荷物〟になるのはないか」と慎重な受け止め方をしていた。
さて関扇闘争のそもそもの出発点での要求は「せめて日曜日くらいは休ませて欲しい」というものだった。組合との間で「日曜休日」協定(64年)がるものの、会社はそれを無視して一方的な指名で日曜稼働を強行していた。親会社のアサノは関扇運輸に対し契約更新をエサに組合つぶしを指示し、以後警察幹部あがりの労務屋の導入、組合分裂・乱立、さらに一組への時間外労働のカット(日干し)攻撃をかけた。そして65年1月一組の9人に解雇が通告された。後に判明した事だが、会社はこの解雇に先立って「退職金、賃金、予告手当」に充当する為にアサノに対し「御融資御願」を提出していた。
関西扇支部は警察OBの労務屋や、「守衛」という形で導入された暴力団の脅しの中で解雇撤回闘争をつづけた。3月には社屋ビラ貼りを理由に7人が逮捕される等、警察と会社が一体となって弾圧がつづいた。
背景資本・アサノに対し勝利/69年10月
だが6月1日、大阪地労委は不当労働行為を確認すると共に、残業停止以降の実損1300万円の支払いを命じた。つづいての会社との交渉でも、①残業停止の解除②9人の解雇撤回が確認された。
ところがその交渉から8日目、6月17日関扇運輸上田社長は国電に投身自殺してしまった。遺された遺書には「アサノの指示によりシュンジュンした・・・」と親会社アサノを非難する文面がかきつらねられていた。社長を失った関扇社は自己破産手続きをして雲隠れしてしまった。
組合は既に「1300万円の未払い賃金」について労働債権として差し押さえていたが、これからの長期にわたるであろう闘争を予測して、失業保険、アルバイトの完全プール制、生活保護と財政面での自立の道を確立して行った。また会社の放置した書類中から会社と警察との贈収賄関係や二組づくりの数々の動かぬ証拠も発見した。
そして関扇倒産の真の黒幕であるアサノコンクリート及び日本セメントへの抗議も執拗につづけられた。地労委審問の場にアサノの代表をひきづり出す事にも成功した。ビラ貼り事件で刑事被告席にひき出された仲間の裁判もついに高裁でも一審の無罪判決が支持された(69年10月3日)。
地労委での不当労働行為の当事者責任がもはや、逃げられない。こうしてアサノは軍門に降った。69年10月21日、関扇支部との間で、①30名の就職斡旋、②協定後2ヶ月間の生活保障、を内容とする協定が交わされた。足かけ6年、1856日間に及ぶ闘いの勝利である。親会社である大阪アサノを解決のテーブルに引っ張り出しての勝利であり、後の「使用者概念の拡大」「背景資本追及」の闘いへとひきつがれていくのである。
三生佃・3名不当解雇の背景/66年10月
関西扇闘争の大詰めを迎えた69年の秋、関西地区生コン支部にとっても歴史的な大勝利をかちとった。
三生佃分会の3名(木村・川口・武)への不当解雇事件に対して大阪地裁で、①解雇撤回、②解雇処分中の未払賃金支払の勝利命令がだされた事である(69年9月25日)。
3名が解雇処分を通告されたのは3年以上も前の1966年10月18日である。当時、武建一は関生支部執行委員長、木村は支部執行委員、川口は三生佃分会組合員であった。他に分会執行委員3名(中川・山川・水谷)に対し10日から2ヶ月の出勤停止処分がかけられた。
解雇並びに出勤停止処分の口実は「9月2日のピケット行動」を「大衆扇動と一方的に決めつけたものである。1ヶ月半以上も前の「ピケ」を理由にしたこの処分は、明らかにとってつけた口実であり、本当の狙いはもっと別のところにあった。
それは「三矢作戦・三生版」と呼ばれた用意周到な組合潰し計画のシナリオどおりに実行されたものである。その前年(65年)秋の台風で高波の被害にあった神戸営業所で捨ててあった荷物の中に「労務日誌」「労務対策日程表」が紛れ込んでいるのが発見された。それによると、会社が合理化を提案すると組合はこういう行動に出るだろうとかの詳細な〝挑発計画〟や、更に第二組合結成準備計画などが綿密に検討されいた。
64年新年早々の勝又委員長解雇、66年9月の新谷分会長解雇、そして「一つの企業に5つの組合」(64年暮)が作られるという三生労務の「三矢作戦」の総仕上げが今回の3名の解雇である。
第二に65年の関生支部結成によって翌66春闘では要求はかつてなく前進し、セメント・生コン資本にとって支部の存在が大きな脅威となってきた事である。そして支部の主力が三生運送の各事業書であり、中でも武建一初代委員長を送り出した佃分会であった。三生佃を叩きつぶす為に総攻撃がかけられ、関生支部にとっては浮沈をかけた闘いとなった。
第三に処分のかけられた時点は、その3日後に10/21ゼネストが迫っていた。ベトナム侵略戦争に反対するこの10/21ゼネストは全国でも「その規模は安保闘争につぐものといわれた」(『総評20年史・下巻』)ほどの盛り上がりとなった。関生支部もこの日分会で2時間の時限ストが決行された。このストに対し政府・企業は「政治ストは民主主義を破壊する」と攻撃した。三生での処分攻撃はこの10/21ストへの事前牽制という一面もあわせもっていたのは明らかである。
三生解雇撤回・現職復帰/70年1月

解雇から現職復帰に至る1187日、3年3ヶ月に及ぶ三生闘争はこうして始まった。
武・木村・川口の3名はアルバイトによるプール制で生活を支えた。主にタクシーのアルバイト運転手の仕事を求め、当時一般の運転手が月収6~7万円という時期に、一人1~2万円の生活費で歯を食いしばっての生活を続けた。生活保護、失業保険、医療保護を活用し、アルバイトの他に行商・オルグ活動をくりかえした。
その一方で家族を含めた徹底した討論で長期闘争の保障を築いていった。家族の一人が後に語るように「隣の家からすき焼きのおいしそうな匂いが流れてくる中で、うちではお肉の入っていない野菜炒めしか食べられなくて・・・・」というような他人には口に出せぬしんどさに泣いた事もあった。
解雇撤回闘争は職場を基礎に闘われ、春闘でのストライキなど解雇者を中心に、あらゆる合法的戦術を駆使して闘われた。会社の方はステッカーはがしや組合員めがけての奉仕など妨害・嫌がらせをくりかえして対抗した。
裁判闘争の中では先述の「労務日誌」等が証拠書類として提出され、会社の一貫した組合潰しが明らかにされていった。これが結局裁判闘争の勝利を早めた。
公判の進展と共に、春闘・一時金闘争でのストへの会社の攻撃もだんだんと弱まっていった。
職場の雰囲気も変化してきた。恒常カンパに対して、第二組合の中からも匿名でカンパが寄せられるようになってきた。さらに要求の提出から妥結、戦術行使の節々での共闘の呼びかけが実り、戦術会議の開催(佃第三組合、神戸労組)や統一行動にまで発展した。ストライキも交互に行うまでになり、その後全員加盟に至るための下地を作った。
こうして1969年9月25日、15回の公判を経て判決が下った。「職場復帰させ、昭和41年10月20日以降の賃金を支払え」という全面勝利判決である。
しかし会社は原職復帰を拒否しつづけた。直ちに関生支部の追い打ちが始まる。会社を社会的に包囲し孤立させるための地域へのよびかけが強化された。「残コン処理や排水等の放置、粉塵タレ流しを平気で行い、地域環境を破壊する三生」という宣伝は、地域住民の共感を集めた。ついに会社は音を上げた。12月15日~16日の団交で原職復帰が協定化された。
三君は1970年1月21日、分会員の見守る中、われるような拍手の渦に迎えられてタイムカードを押して就労した。

親会社の責任で企業再開大豊運輸/69年11月~73年3月
生コン支部の揺籃期(ようらんき:発展のはじめの時期、ゆりかごに入っている時期)を彩る三大闘争のもう一つが大豊運輸争議である。
大豊には同盟交通労連が組織されていたが69年8月に執行部が民主化され、逆に組合除名社中心に二組が作られた。当時の組合の要求は「ハツリ(生コン車のドラム中に凝固して付着したコンクリートの乖離作業)は会社の責任で行え」「洗車時間を認めよ」という当たり前すぎる位の要求であった。そして10月末から時限ストに入った組合に対し、会社はロックアウト(就労拒否)で対抗し、「仕事が欲しけりゃ組合を脱退しろ」と不当労働行為を繰り返した。ロックアウトは12月15日まで続けられ、その間同盟は何の支援も行おうとしなかった。
堪らなくなった一組63人は同盟を脱退し全自運関西地区生コン支部加入を決断した。
会社は70年2月に配置転換を行い、4工場のうち守口、尼崎を全員二組で固めた。他方で高槻、尼崎の一組の仕事を干しあげ、倒産宣伝を行って退職を強要し一組を半減させた上で、8月半ばに企業閉鎖・全員解雇を通告してきた。
首を切られた24名の一組は自動車解体作業を手がけて生活資金を作り、学習(関扇の記録『めしと団結』の読み合わせ等)や組合まわりに精を出した。3年間の闘いの中で買いたいした車は千数百台にのぼったという。
71年秋には関生支部をあげての大豊高槻工場泊まり込み闘争が実行に移され、三菱=豊国セメントの大動員によるプラント打ち壊し(71年11月9日)を阻止した。この工場再開を不可能にせんとする三菱のプラントスクラップ化を未然に粉砕したのにつづき、翌72年には大阪地労委で親会社の使用者責任を命じた画期的命令をかちとった。
中労委へ舞台を移す中で和解交渉が始まり、親会社三菱の責任で企業再開(高槻工場新設、現高槻生コン)、全員雇用するという確認で解決した。1973年3月15日、和解協定が調印された。1312日間の長きにわたる闘争の勝利的終息である。
一進一退の最初の7年間
生コン支部結成後の最初の7年(1965年~72年)は文字どおり一進一退であった。66年に組合員数340人を数えたものの、71年には190人と底をつき、260人前後を行きつ戻りつしていた。
上向きに転じたのは73年の433人からであり、以後は倍々ゲームの勢いで伸び、1983年には3500人に達した事もある。この組織増勢への転換の背景には73年以降の集団交渉方式のスタートとして75年末の産業政策闘争の定着がある。
73年以降の組織的前進はさておき、65年の支部結成から72年までの最初の7年間の組織状況に話を戻そう。
この時期は生まれたばかりの関生支部が自らを不動の組織として確立するための「産みの苦しみ」の時期であった。経営者は「双葉のうちにつみとれ」とばかり甘言を弄したり、暴力をもっておし潰しにかかった。親方や労務、時には暴力団が我が物顔に横行し、それでも手に余るならば警察が乗り出してくる。
組合(分会)を作っては潰しの毎日である。結成したその日のうちに一人も居なくなった事もあり、何とか経営者と交渉に入っても幾日もたたぬうちに大半が脱退してしまったりのくりかえしである。
分会活動が軌道にのった職場では経営者側の全体重をかけた全自運潰しが始まる。従ってこの時期は支部組織の存亡をかけた「のるかそるか」の攻防が頻発した。既にみた三大争議-関扇・三生・大豊-や東海運の闘いがその典型である。
現実の攻撃をうけて闘争経験を積み重ねる中で関生支部の作風・伝統が作られ、練り上げられていった。「背景資本との闘い」「使用者概念の拡大」も、初めに理論的整理・把握があって始まったのでなく、個々の企業の社長が姿を消したり責任に頬かむりする中で、何処に責任をもって行くかという実践上の模索から形づくられていった。
的の攻撃は支部の弱い隙間をついて突破口を開き、その上で支部組織もろとも崩しにくる。だからこそ一分会にかけられた権利侵害に対しても支部全体の総力をあげた反撃でしかはね返せない。ここから「他人の痛みを自分の痛みとする」作風がつくりあげられた。
生コン支部の「創世紀」というべきこの時期の争議の勝利は、「生コンの職場に法律なし」の状況を打ち破り、以降の労働組合活動の定着を築く礎となった。73年からの支部の歩み、歴史も息つぐ暇のない権利侵害との闘いの連続である。闘わずして要求の前進なし、この古くて新しい命題を身をもって体現してきたのが、関西地区生コン支部の30年間である。
 
第1章 関生支部が生まれた「あの頃」 終わり

第2章 政策課題と産別闘争の歩み に続く

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全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部

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