① この講義で理解できたことは、この資本主義社会において自由は人々に与えられたものではなく、一部特権階級に与えられたものであり、また世の中にまかり通っている常識(特に経済学の)などについても人々の実生活とはかけ離れたところに存在するものであるということであった。
アメリカで出世する、エリートになるためには8つのエリート大学(ブラウン大学、コロンビア大学、コーネル大学、ダートマス大学、ハーバード大学、プリンストン大学、ペンシルベニア大学、イェール大学)、いわゆるアイビーリーグ出身者でなければ覚束ない。それは一部特権階級や富裕層などが挙って自らの子息を入学させて、その子息たちは同窓や先輩、後輩などという繋がり(コネクション)を築くのである。アメリカで特権階級に君臨するためは、そのようなコネクションが必要不可欠だからである。
また、その入試に関しても合格基準がなく、公表もされず、かつAO入試、アドミッションオフィスという形態をとっており、それは事務局が(恣意的に)合格判定する形態の試験である。現実に、合格者の1/3が芸能人やスポーツ選手等有名人の子供、1/3が政治家と金持ちの子供であり、まともに受験で合格するのは残りの1/3程度である。「自由競争の国」アメリカは名前ばかりであって、実は非情なまでのエリート社会、学歴社会であった。このような状況はアメリカ社会に限らず、イギリスにおいてもそうだし、日本においても少なからずそうである。要は、現代社会においては、家庭の貧富の差や親がエリートか否か、そして教育課程がどうであったかなどが人の社会的身分に大きな影響を与えている。
② また、社会における格差は教育格差だけではない。トマ・ピケティ『21世紀の資本』によると、資本主義においては、資本収益率は経済成長率を超えるという傾向にあり、それは、資本(資産)所有者は時間とともに資本(資産)所有を大きくするが、それを持ち合わせていない者は、経済成長程度の生活水準向上ぐらいしか見込まれないことを意味する。このまま行くと19世紀のヨーロッパ以上に不平等な社会になるというのである。
このように、いまの資本主義社会においては、資本(資産)を有しているか否かで人々の社会的経済格差が固定され、それが格差の拡大されていたのである。
③ 市場(マーケット)においても人々の自由などはない。存在するのは巨大企業の計画的支配の下の名ばかりの自由である。現代社会の企業は資本家(オーナー)ではなく、経営者が支配する。いうなれば経営のプロが支配しているのである。その経営者=経営のプロが支配する巨大企業はマーケットに従属しない。逆にマーケットをコントロールすることを目論む。
巨大企業の多くは、各国に点在する傘下の企業なども含めた複数の、複雑極まりない企業群からなる。その組織は垂直統合された形態(日本企業においては下請け重層構造をとるのが一般的)をとっており、それは原材料や部品調達などに市場価格の影響を受けない仕組みである。世界総輸出の3 分の2 は多国籍企業の親会社、子会社及び非子会社間の取引など内部取引であるといわれている。その様な仕組みは市場をコントロールする原動力となる。また、莫大な開発宣伝費をつぎ込んで新商品を開発する。そしてあらゆるメディアを使い、新商品を宣伝する。パナソニックの研究開発費は、日本のすべての国立大学の研究資金を合算した額よりも高額であるといわれている。それは人々を惑わし有効需要を喚起して、需要曲線を操作する力となる。
そして巨大資本は政治を市場に介入させるのである。それは80年代に日本人が開発した「TRON」という純国産OSの行く末に象徴される。
このTRONは、システムが頑強で、かつ純国産ということもあって漢字表記にも強く、ソースコードなども無料で公開されており拡張性に富んでいた。そのような使い勝手がよく、拡張性のあるTRONを国内メーカーがパソコンに搭載し、教育現場などに普及させようとした際、それを貿易障壁とみなすアメリカ側の政治的横槍が入り、結果的にTRONはパソコン用OSとして普及することはなかった。これはアメリカによる政治の市場への介入というべき事態であり、TRONの失敗の裏側で利益を得たのはマイクロソフトであった。市場にも人々の自由は存在しないという証である。
このように現代社会における民主主義においては、一見、人々に自由を保障するように映っているが、実は一部特権や巨大資本による力で大きく制限されていたということが理解できた。