≪危機の中から生まれた産業政策運動≫
『関西地区生コン支部労働運動50年―その闘いの軌跡』 書評
垣沼 陽輔(全日建近畿地本執行委員長)
◆人員整理が進むなか、2名で組合を結成!◆
私が関生支部に加入した
のは1976年6月1日。大
阪生コン千島工場で全自運
の分会を2名で結成した時
のことです(輸送部門には関
生支部三生運送千島分会が
存在)。
当時の生コン業界
は1973年に起こったオイ
ルショックの影響を受け、夜
間の工事も減少して人減ら
し=「合理化」が進んでいる
ときでした。
生コン会社は次々に倒産。
要求実現のために各職場が
個別に到達闘争を展開する
のではなく倒産の危機にあ
る中小企業の2面性(一方で
労働者を搾取し、他方で大企
業から収奪される)を
見抜き、生コン会社が
セメントメーカーに収
奪されている側面を分
析しました。そして、そ
こに働く労働者と中小
企業とが共通の課題で協
力・共闘できると考え、73
年からは「集団交渉」を実
現して集団的労使関係の構
築を推進。
76 年
11
月に「政策
課題の前進をめざして」(政
策パンフ)を発行しました。そうした現在の生コン産
業政策運動の礎を築いた時
期に私は関生支部に出会い
ました。
今では、産業政策運動が当
たり前になっていますが、取
り組みはじめた頃は「賃上げや一時金を抑制するためで
は?」という反発もありまし
た。しかし、生コンの過当競
争を抑制させることで生コ
ン価格の安定と協組運営で
経営が安定し、雇用環境改
善・労働条件向上を実現す
ることができたのです。
◆襲いかかる弾圧の嵐、はね除け運動が前進◆
ところが先進的な運動の
成果に恐れを感じたセメン
ト資本が、その中心に座る関
生支部の力を削ぐために何
度も刑事事件をでっちあげ、
弾圧を仕掛けてきました。
この弾圧をはね返して現
在まで産業政策運動に邁進
してきたからこそ、今日の水
準を維持。中小企業と労働組
合が提携して生コン価格の
適正化、協同組合への結集で
経営安定を勝ち取ることが
できたのです。
◆先人がつくった土台を継承・発展させよう◆
年を振り返れば、生コン
産業で働く労働者の賃金・
労働条件向上と中小企業の
経営安定のため奮闘。同時
に、反戦平和・差別撤廃・人
権擁護などの確立に向け闘
い続けた半世紀です。
これか
らの
50
年先を見通せば決し
て楽な道程ではありません
が、先人がつくり上げたこの
土台をしっかり支え、発展さ
せなければなりません。
【 くさり7月号より 】