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関生支部80年代大弾圧の歴史

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 いま、関生支部への権力弾圧が集中しています。

権力・資本の真の目的は、真っ向から対峙してくる関生支部の弱体化や破壊。当然、理非などはどうでもよく、労働条件にかかわる約束を幾度も反故にされたために行った「ストライキ」であろうと、中小企業団体の正当な営業活動やこれに協力する労働組合の正当な組合活動であろうと、「事件」にすり替えて攻撃を繰り返します。今回もその手法で各府県警が弾圧を繰り返すという暴挙に出ています。


■「権力弾圧」はいつも政策運動で権力者側が不利になると始まる!■

 「弾圧」は、1965年の関生支部結成当時から始まっており、セメント直系生コン工場が中心となり、虎視眈々と業種別支部の弱体化を狙って画策。日本セメント(現、太平洋セメント)直系の大阪アサノコンクリートでは、下請け輸送会社の関扇運輸が企業閉鎖と全員解雇を強行してきました。全自運関扇運輸支部は、解雇撤回闘争に全力で取り組み、原職復帰には至らなかったものの勝利解決で決着しました。

他方、大阪セメント(現、住友大阪セメント)直系の大阪生コン佃工場(現、新淀生コン)で全自運が結成された時に、会社側は暴力団を雇い入れて組合つぶしを行ってきました。この会社の攻撃に屈せず、武委員長はじめ3名の組合員解雇闘争を果敢に闘った結果、原職復帰を果たしたのです。

 このように、関生支部結成当時から会社の暴力的な支配は繰り返され、それに対抗するため「ストライキ」をはじめ多様な戦術を駆使して闘いました。その闘いの結果、経済要求では同盟交通労連主導の低額回答を打ち破り、力関係を関生支部主導型の春闘に変えさせたのです。

 1973年の春闘では、14社を相手に初の集団交渉を実現し、「統一要求・統一交渉・統一妥結・統一指導・統一行動」で挑みました。

 この時、直接の雇用主と対峙するだけではなく、その背景資本への責任追及に加え、中小企業と共同による「産業構造民主化闘争」に取り組み、セメントメーカーやゼネコンとの対等取引関係確立に向け政策闘争を展開。その結果、1975年の春闘で同盟の要求額を上回る回答を引き出したのです。

 組合の組織率も倍々に増え続けた時代でもありました。

 1973年のオイルショックで、建設産業は需要が減少しました。その影響をまともに受けた生コン産業も生産過剰に陥りました。以降、生コン産業は個社間の競争(生コン価格のダンピングやゼネコンへの過剰サービス)に巻き込まれ、労働者の賃金・労働条件は低迷。関西でも多くの生コン会社やその出入り業者が倒産の危機に瀕しました。

 そこで、関生支部は集団的労使関係を活用して中小企業が持っている性質(一方で労働者を搾取している側面、他方で大企業に収奪されている側面の二面性があること)を見抜き、セメント独占資本や大手ゼネコン・大手商社の大企業に収奪・支配されている生コン企業が、労働組合と共通の課題で協力・共闘できることを掴み、「政策要求」を提起したのです。

 生コン企業の経営に大きく影響を与えるセメント価格の引き上げに反対し、破産・倒産に繋がる生コン工場の新増設に反対するなど、セメント資本の横暴な営業政策を規制する取り組みを進め、生コンの適正価格と適正エリアを確保して、生コン産業の基盤の安定化とセメント資本への従属からの脱却と自主性・自立性の確立を求めました。

写真1

  ■関生支部への本格的な権力弾圧は「阪南協事件」から始まっている■


 「事件」のでっち上げによる大弾圧は、1980年9月の「阪南協事件」が始まりです。
この事件は、1980年の生コン関連経営者連盟と生コン労協との間で締結した「年間104日休日協定」を履行するため、大阪府下の生コン協同組合がまずは8月の夏期休暇から統一的に休業するとしたことが発端です。

 年間休日104日に基づく夏季休暇を阪南地区生コン協同組合傘下の6社が、一方的に不履行にしたため、「生コン産業近代化を進める会(関生支部、同盟生コン産労、全港湾の3労組で構成)」は、阪南地区生コン協同組合に対し、労働協約の履行を求め交渉・要請などの行動を展開しました。この正当な組合活動を権力側は、「威力業務妨害、暴力行為等処罰に関する法律違反、恐喝・恐喝未遂」などとでっち上げ、役員はじめ5名を逮捕したのです。

 1982年は、関生支部とあわせて大阪兵庫生コンクリート工業組合への権力弾圧が集中。

(1)関生支部への権力弾圧は、三永事件・ 京都集交事件など6件の弾圧がかけられ、2 3名が不当逮捕される(関連する東京8名、 愛知1名含めると32名)。

(2)大阪兵庫生コンクリート協同組合の関係で は、理事長(武藤氏)、交渉団長(中司氏)、連 合会会長(田中氏)の3名に「背任罪」で権力 の圧力が加えられる。その後、逮捕され実質上 それまでの工業組合役員体制を メーカー、権 力の圧力介入でつぶしにかかる。

(3)権力弾圧が集中する厳しい状況の中、19 82年12月17日付けで、日本共産党機関誌 赤旗で「権力弾圧に対する運輸一般の基本 的態度」が発表される。これは、日本共産 党の権力弾圧を恐れた「労働組合分断策動」 であり、闘う労働組合関生支部を切り捨て、 自らの保身を確保するという裏切り行為です(後の分派活動を行ったことからも明白)。

 以上のように、1982年はセメントメーカー、権力、日本共産党までもが一体となり、関生支部つぶしの攻撃を集中してきた年でした。関生支部への組織破壊攻撃が行われた82春闘は、労組との協力関係で生コン産業の近代化を進めようとしていた工組・連合会に対しても交渉団の入れ替えなど、権力の介入が集中しました。

 この時点より、セメントメーカー・警察権力の工組・連合会への不当介入が始まり、工組の体制が事実上確立できず工組の機能が麻痺。この1年は81年春闘協定32項目の約束事項は、全く履行されない状況が続いたのです。

 これらの攻撃は、関生支部のセメントメーカーや大手ゼネコンなど独占資本との闘いの前進と、生コン業者や輸送業者など中小企業との協力関係による生コン業界の民主的な発展基盤の確立の成果が生まれることに脅威を感じた権力による「関生支部つぶしのための弾圧」にほかなりません。


 ■資本主義の根幹揺るがす関生運動。箱根の山を越えさせないと発信!■


 鶴菱闘争の解決に危機感を持った当時の大槻文平三菱鉱業セメント会長(セメント協会会長、日経連会長)は、関生支部の運動を指して「資本主義の根幹を揺るがすものであり、関生運動は箱根の山を越えさせない」(日経タイムス)とし、関生支部対策として警察権力(大阪府警東淀川署に特別対策班を設置)を動かして関生支部弾圧に全面的に乗り出してきたのです。

 これらの運動の成果は、関生支部が目指す産業別運動の画期的な成果であり、独占セメントメーカーにとっては、他に類を見ない脅威を感じる労働運動と捉えざる得ない事案でした。

 このような労働組合と中小生コン会社の結集団体である工業組合・協同組合が協力共同して、生コン業界の近代化を進める取り組みを具体的に進めていることは、今日の資本主義社会において大企業独占の資本側にとっては到底容認できないことであり、それは、その後の権力弾圧の攻撃が物語っています。

写真2

(1)大阪兵庫生コンクリート工業組合と関生支部を中心とした生コン関係労働者協議会(略、生コン労協=関生支部、同盟産労、全港湾で構成)との実質上の団体交渉権(集団交渉)が確立し取り組まれるようになったこと。議論のテーマは、共同施設建設(①総合レジャースポーツセンター②海の家③研修センター)を交渉議題として取り上げ、②③の建設を実現(それぞれ81年完成)させたこと。

(2)80年9月、神戸苅藻島の新設プラント問題を生コン労協の取り組みによって、住友セメント・北浦商事との間で新設プラント創業阻止を実現してきた。

(3)神奈川菱光の下請けであった鶴菱運輸闘争支援では、全国生コン部会での支援決議に基づき、関西の三菱関係分会(大豊運輸、新関西豊国生コン)の支援ストライキに対する権力動員、職制による暴力事件や守口・高槻の三菱関係2工場にロックアウトを6ヵ月かけ組合員を職場から排除する暴挙にでたものの、関生支部の闘争方針(雇用・労働条件の維持向上と生コン産業の民主化を進める保障は、セメントメーカーの攻撃と全面的に闘うこと)に全組合員が確信を持って闘ったことが画期的な産業別闘争の典型的な勝利につながったもの(81年6月全面解決)。


  【 くさり12月号より 】

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