関生ヒューマンスポット?
◆ 東大阪ブロック I組合員 ◆
1971年、熊本から夫婦で守口に上京。飯場に住み込みで働き、翌年の10月20日にK生コンに入社。私が24歳の時でした。
会社のまわりは田んぼばかりで道路も舗装されておらず、デコボコ道だらけ。当時は4トン車10台で生コンを運んでいましたが、低賃金で休みも取れない状況だったため辞めていく者も多く、気がつくと私が一番古株になっていました。
そんな時、同僚から「組合作りを一緒に手伝ってほしい」と話がありました。私もこの環境を変えたいと思い、組合(当時は全自運関生支部)に加入。匿名で学習を積み、1975年6月10日に7名で公然化しました。
会社は組合潰しを行うため労務屋を雇い入れ、第二組合(現在の産労)を作ってきました。
1976年4月20日、会社と第二組合に分会三役がスナックに呼び出され、暴力事件にまで発展。私は15針も縫う大けがをしました。それでも闘った結果、1978年の春闘でそれまでの個別交渉からミニ集交、そして専業集交へと交渉スタイルが代わり、各工場の賃金・労働条件の格差が改善しました。
その後、第二組合もなくなり、運輸一般が分裂。私たちは連帯に所属することになりました。
優先雇用協定の元、朝日分会から仲間を2名人員補充することもできました。
しかし、不況で景気が落ち込み、東大阪でも企業の倒産・閉鎖が続きました。私たちの会社もそのあおりを受け2003年3月20日付けでK生コン社も広域協の構造改善事業となり、企業閉鎖になりました。閉鎖後分会は3名が朝日分会で就労し、現在は私1人になりました。
今日まで組合に参加して46年。組織部を担当し、組織拡大に奮闘することでブロックに200名を越える仲間がいた時もありました。特に家庭を守ることはとても大切で、家族と交流を深めるために「団結は酒場から!」を実践。組合員の家族も含め交流を盛んに行っていました。それが婦人クラブの設立に繋がり、現在の「家族クラブあさがお」に受け継がれていると思います。
これまで学んだ経験を活かし、今後もブロックの若い人に繋げていきたいと思っています。現在、厳しい状況が続いていますが「他人の痛みは己の痛み!」を合い言葉に、勝利するまで団結して闘いましょう。
【 くさり8月号より 】