= 戦前の「大阪労働学校」ゆかりの地を探索する⑥=
記事: <大阪労働学校・アソシエ 学長> 本山 美彦
明治27~28年(1894~95年)は、日清戦争の年であった。戦争終結の翌年(1896年)、長崎に滞在していたトーマス・グラバー宛に、対日外交の大立者であったアーネスト・サトウから私信が届いた。文面は、ジョン・ポインツ・スペンサーが来日するから会ってやって欲しいというものであった。ジョン・スペンサーは第五代スペンサー伯爵(故ダイアナ妃の先祖に当たる)で、英国貴族院議員、海軍大臣を経験した大物政治家であった。海軍大臣を退いた後、妻と世界漫遊の旅の途中に日本に立ち寄ったのである。来日したのは、明治29年(1896年)3月22日であった。日本では、日本海軍の基地である佐世保と長崎の造船所を見学することを希望していた。サトウはその手配をグラバーに依頼したのである。
サトウの手紙にはいくつかの注意を引く点があった。まず、サトウはグラバーと非常に親しい友人同士であったこと。さらに、伊藤博文や井上馨といった日本の指導者とサトウが親密な間柄にあり、伊藤と井上が当時なんらかの意見の衝突があることを示唆していたこと、さらに、グラバーもまたこの二人と親しかったことが表現されていること、等々である(サトウの手紙は、2003年刊の『グラバー家の人々』の著者であるブライアン・バークガフニの所蔵)。
グラバーが日本の二人の大物政治家と親しかったことは当然である。伊藤も井上も、青年時代にグラバーの手引きで密出国、ロンドン大学に留学させてもらったからである。出国、英国滞在費の多くは、グラバーがエージェントをしていたアヘン商人の「ジャーディン・マセソン商会」が負担していた。グラバーが明治新政府のエリートたちに近づけたのは、薩摩と長州の若者たちの留学を斡旋したからである。
それよりも重大なことは、サトウがグラバーの日本人脈を熟知していたらしいことである。
スペンサーは、佐世保と呉を見学した後、すぐにグラバーに礼状を送った。そこには重要なことが示されていた。
西欧人が一人もいないのに、日本の基地では、船舶の建造や武器の生産において、複雑な機械を駆使していること、整然として仕事をしている様をスペンサーは激賞している。
しかし、いかに英国の大物政治家であっても、世界漫遊の政界引退者に、国家秘密に属する軍艦や兵器工場を明治政府が唯々諾々と見せるものだろうか?明治政府とスペンサーの真の意図はどこにあったのだろうか?
明治35年(1902年)に日英同盟が結ばれたが、三菱の二代目社長である岩崎弥之助が、その年の7月22日付けの伊藤博文・総理大臣(初代首相)宛書簡で、グラバーになんらかの賞を与えるべきだと進言している。グラバーは諸外国の要人たちに日本が日清戦争を戦うことは不当ではなく、正義の表れであることを説得して回ったということが書簡では説明されていた。日露戦争(1905~06年)の時もグラバーは日清戦争時と同じく、対外的なスポークスマンとして日本政府を代弁した。グラバーは、東郷平八郎とも親しく交わっていた。そして明治政府は勲二等旭日重光賞を外国人初としてグラバーに授与した(1908年)。伊藤はグラバーの麻布邸に別館を寄贈している。
【 くさり1月号より 】