学習を創造的活動に活かそう
教育部では、月に一度開催する幹部教室を通じて、執行委員のレベルアップに力を入れています。今月のテーマは「生コン産業の前進と関生支部の歴史」です。
■生コン業界の発展と関生支部の産業政策運動■
生コンが日本で使用され始めた1923年以降、1953年、大阪に生コン工場が新設。セメントメーカーはセメントの販売手段とし生コン工場を新設し、多くの労働者を雇い入れた。劣悪な労働条件で働かされた労働者が立ち上がり関生支部が結成された
世界でのセメントの歴史は、ローマ時代にさかのぼる。石と石との接着剤として古くから利用されてきた。日本では、1923年関東大震災直後に簡易ミキシングプラントが設置されたのが最初とされている。
●近代的な工場を設立、発展する生コン産業●
その後1949年、岩城セメント(現住友大阪セメント)が出資し、最初の近代的な生コン工場が設立。戦後復旧需要から各地で生コン工場が新設され、セメント販売の手段としての生コンという意味合いが強くなっていく。
このような状況下の1965年10月17日、関西地区生コン支部は誕生した。背景資本であるセメント資本に対して臆することなく闘い成果を上げた。一方のセメント資本も企業の連合体である弥生会を設立し対抗する。
●特需が終わり需要減、ピンチをチャンスに●
流れが変わったのは1970年代。日本の高度経済成長期も終わり低成長時代に入る。東京オリンピックや大阪万博、新幹線、名神高速など大型公共工事も終わり、生コン産業は構造不況業種となり需要の低迷から生コン価格は低下、多くの工場は閉鎖を余儀なくされた。
その状況をチャンスと捉え73年集団交渉では産別統一闘争を徹底、最低賃金保障制度や優先雇用協定を勝ち取った。
その後も生コン業界の混乱はとどまることなく、破倒産企業や合理化の嵐が吹き荒れる。1975年、協同組合化、労働条件の平準化、不当労働行為排除大資本の圧力の排除を提起。産業政策を労使協力して進めていくことになる。そして、82年労組と大阪兵庫工業組合との間で「32項目」協定を確認する。
●過当競争で業界混乱、繰りかえされる●
労組と業界の良好な関係も長くは続かなかった。国策である81~82年にかけての弾圧、共産党による分断攻撃により、生コン支部は分裂。後ろ盾を失った生コン業界は再び過当競争に追い込まれ破倒産、廃業が相次ぎ業界は混乱。90年代初頭から新たな業界秩序を確立する機運が生まれた。
94年、生コン政策協議会(関生支部、生コン産労、全港湾)と業界が連携。大阪広域生コンクリート協同組合が結成され、値戻しも進み業界は再び安定期に入る。2005年、協同組合の安定を求める労組の要請行動を「強要」とする弾圧を契機に、広域協組は再び混乱状態に。過当競争を繰り返し倒産の危機に追い込まれていく。
歴史を振り返ると労組との距離と業界安定は大きく関連している。協同組合は相互扶助する団体であり、業界内での大きな声は不必要な組織である。労組なくして安定なし。「過ちを繰り返さない」確信を持ち闘おう。
【 くさり9月号より 】