新着一覧はこちら

戦前の「大阪労働学校」のゆかりの地を探索を探索する(13)

   著:本山 美彦 ( 大阪労働学校・アソシエ 学長 )


 戦前の大阪労働学校は、多才な人材を出し、多才な人材の支援を受けた。なかでも、森戸辰男の貢献は大きかった。

 森戸は1888(明治21)年、広島の福山生まれ。一高、東大と当時の官吏養成のエリート校に在籍していたときには、新渡戸稲造、内村鑑三、高野岩三郎、吉野作造に心酔していた。高野の下で助手を勤め、助手二年にして東大法学部助教授と日の当たる道にいた。

 1919(大正8)年、経済学部が京大と並んで東大に新設され、機関誌『経済学研究』も同年11月に創刊された。この創刊号には、森戸の「クロポトキンの社会思想の研究」と櫛田民蔵の『共産党宣言』の翻訳が掲載された。そこで森戸は、何ものにもとらわれないクロポトキンの無政府共産主義の理想への憧れと、しかし、無政府主義が実践原理としては物足りないことを述べた。

 この創刊号は、発禁処分を受け、経済学部教授会は森戸を休職処分に伏した。森戸は、裁判にかけられ、三宅雪嶺、吉野作造、佐々木惣一、安部磯雄の弁護団が組まれたが、有罪判決を受け、東大を失職、巣鴨の独房で三ヵ月間の禁固刑に服した。大学を追われた森戸は「大原社会問題研究所」に職を得た。

 晩年の森戸は「家永教科書裁判」において国側の証人になったり、「中央教育審議会」の会長として「期待される人間像」を政府に答申するなど変節。「どうしてしまったのだろう?」と私にはいまでもその謎が解けないが、少なくとも、若いときには、1922(大正11)年6月1日の「大阪労働学校」創設にあたっての最大の尽力者であった。

 彼の要請で河上丈太郎は講師を引き受けたし、松沢兼人が労働学校の主事であったのも、森戸の懇請があったからである。

 大阪労働学校は、鈴木文治が「ユニテリアン教会」というキリスト教の教会の幹事であったときに創られた「通俗講話会」(1912年1月)という一種の労働者の懇話会を源流とする。この年の8月に歴史上有名な「友愛会」がここから結成された。この影響下で1920(大正9)年1月に「関西労働組合連合会」が発足、ここで開催された労働講座を基に、賀川豊彦、西尾末広たちが、翌年11月、「労働学校設立趣意書」を発表。賀川の印税の寄附によって、「大阪労働学校」が、私たちの「大阪労働学校・アソシエ」の近くに建っていた日本基督教会の「安治川教会」を借りて開校した。開校式の模様は、翌日の『大阪朝日新聞』朝刊で報じられた。

 大阪労働学校は、夜間、週三回の講義で、三ヵ月を一期としていた。この学校の看板講師であった森戸は、講師陣の多くがクリスチャンであったことを率直に認めている(森戸辰男『日本におけるキリスト教と社会運動』潮書房、1950年、50頁)。

 学校の10周年(1931年6月6日)を記念した「プロレタリア学術大講演会」の講師と演題は以下の通りであった。

 河上丈太郎「独裁政治の諸相」、松沢兼人「知識階級問題」、森戸辰男「無産階級教育論」、賀川豊彦「植民地問題」、住谷悦治「経済学の終焉」、田万清臣「法律の階級性」、杉山元次郎「日本米価問題」、錚々たる陣容であった。

 ちなみに、治安維持法の適用によって家宅捜査された第1号は、1926(大正15)年1月15日早朝の、河上、松沢、京大の河上肇、同大の山本宣治、河野密たちであった(本稿は、中村和光「河上丈太郎の信仰と思想形成についての一考察」『関西学院史紀要』第21巻、2015年3月に依拠した)。


  【 くさり8月号より 】

沖縄問題

沖縄問題 

生コン政策関連

がんばる シングルマザー &ファザー 応援!!

家族クラブ あさがお

青年女性部 (生コン支部の部会)

ここで解決 ホットライン 女性相談員がいます 相談無料 秘密厳守

文化部通信   (生コン支部の部会)

住所・地図

radikoで聴く

赤信号 労働問題 Q&A 知って得する職場のトラブル解決法