戦前の「大阪労働学校」のゆかりの地を探索する(12)
著:本山 美彦 ( 大阪労働学校・アソシエ 学長 )
現在、世人をおののかせている、「テロ等準備罪」と看板を変えた「共謀罪」の正式名は「改正組織犯罪処罰法」である。この恐ろしい法案が、2017年6月15日(私の高校の先輩である樺美智子さんが国会デモで圧死した日)午前7時46分、参院本会議で、「自民」、「公明」両党と「日本維新」の会などの賛成多数で成立した。「審議会」の議決を経ず、「中間報告」という騙し手を用いた「多数決の暴挙」であった。この日に行使された権力の暴挙を私は生涯許さない。本稿は、本連載のテーマである「ゆかりの地の探索」からそれて、戦前の「治安維持法」で追放された京大、市大、神大の学者たちのことを記しておく。
1925(大正15)年、「普通選挙法」という「目くらまし」との抱き合わせで人々の思想を徹底的に取り締まる「治安維持法」が成立した。さらに、思想弾圧をより強化して戦争を遂行しやすくするために、同法は、1941(昭和16)年に改悪された。この法律によって、リベラルな思想傾向を持った学者たちが徹底的に弾圧された。良心的な学者たちは、この法律によって、血の涙を流す日々をおくらざるを得なかった。
1933(昭和8)年、文部省による京大法学部の滝川幸辰教授の休職処分に抗議して、同学部教授たちは京大を辞職した。
辞職した末川博(すえかわ・ひろし)、恒藤恭(つねとう・きょう)、佐々木惣一(ささき・そういち)と言った錚々たる学者たちが大阪商大(現在の大阪市大)に移った。その市大には、同じく京大教授で投獄された河上肇(かわかみ・はじめ)を尊敬する福井孝治、藤田敬三、堀経夫、名和統一(なわ・とういち、私の恩師の一人)、上林貞治郎(かんばやし・ていじろう)、岡本博之、安倍隆一などが経済学部でリベラルな研究環境を維持していた。
彼らは、特高警察ににらまれていた。1943(昭和18)年、戦争に批判的な学生約100人が検挙され、教員4人(上林、安倍、名和、立野保男)、研究員嘱託一人(坂井豊一)、卒業生8人、学生33人の合計46人が起訴された。豊崎稔(私の恩師の一人)、飯田繁、木村和三郎の三教授が辞職させられた。
実際の反戦運動に参加しなくても、唯物論を学問として研究するだけでも「治安維持法」によって弾圧されていた。
1938(昭和13)年11月29日の早朝、雑誌『唯物論研究』(名称は『学芸』に改められていた)に関わる主要会員が一斉に検挙された。検挙されたのは、岡邦雄、戸坂潤(とさか・じゅん)、服部之総(はっとり・しそう)、信夫清三郎(しのぶ・せいさぶろう)、古在由重(こざい・よししげ)たち、30余名であった。映画「母(かぁ)べえ」のモデルとなった新島繁(本名、野上巌、のがみ・いわお)もその一人であった(神大教授)。戸坂潤は獄死した。1940(昭和15)年1月にも第二次一斉検挙があり、購読者100余名が検挙された。
「唯物論研究会」は、唯物論の学問的研究のための幅広い研究団体として1932(昭和7)年10月に、長谷川如是閑(はせがわ・にょぜかん)、三枝博音(さいぐさ・ひろと)、羽仁五郎(はに・ごろう)、舩山信一(ふなやま・しんいち)、大塚金之助、住谷悦治(すみや・えつじ)らによって立ち上げられたものである。会誌『唯物論研究』は月刊であった。
本学(大阪労働学校・アソシエ」の講師の田畑稔先生が、現在でも、その法灯を受け継ぐ新生『唯物論研究』の編集長を担っておられる。
このような悪法はもとより許されるものではない。しかし、もっと許されないのは、犯罪であると「認定する主体」が、今回でも露呈した「節操なき権力」であったという史実である。
【 くさり7月号より 】