戦前の「大阪労働学校」のゆかりの地を探索する(10)
著:本山美彦(大阪労働学校・アソシエ 学長)
●団結権と団体交渉権●
前回で指摘したように、1921(大正10)年5月27日に始まり、約1ヵ月間、ストライキとデモに明け暮れた「藤永田造船所」争議では、労働組合側から「団体交渉権の確認」を求めたことが画期的なことであった。当時、労働者には、「団結権」すら法的には認められていず、ましてや、「団体交渉権」を企業に確認させることなどは、それまでの労働運動の歴史から見るかぎり、瞠目すべき要求であった。
●政治活動を規制して労働運動を潰す目的●
政府は、「自由民権運動」を念頭に、1890(明治23)年7月25日、「集会及政社法」を制定して、政治活動の規制を行っていた。これに、労働運動を弾圧するために新たに作成されたのが、1900(明治33)年3月10日に成立した「治安警察法」であった。ただし、法律の条文のどこにも労働組合の結成を禁止する個所はなかった。にもかかわらず、「団結権」と「団体交渉権」が現実世界で実施されることはまずなかったと言ってよい。法律とは、条文によってではなく、運用によって実質な中身が変わることを、この史実は伝えている。
●労働者の権利として労働三権を認めてた●
法案の策定者である「有松英義」内務書記官は、法案の提案理由説明において、次のように述べていた(現代文に直している)。
「大体政府におきましては、労働者が共同団結し、賃金引き上げその他を要求して、同盟罷業をすることを、労働者の権利として認めております。それゆえに、このようなことを法によってあまり厳しく束縛するのは、今日の社会において、穏やかではないと信じております」(労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第1巻、745~46ページ)。
つまり、「治安警察法」は、労働者の「団結権」、「団体交渉権」、「争議権」を、建て前としては認めていたのである。
【 くさり5月号より 】