戦前の「大阪労働学校」のゆかりの地を探索する(7)
著:本山美彦(大阪労働学校・アソシエ、学長)
1921(大正10)年の日本初の大規模な労働争議で世人の関心を集めた藤永田造船所の歴史は古い。元禄二(1689)年、大坂堂島船大工町に船小屋「兵庫屋」として創業している。船小屋とは、文字通り船を収容したり、造船したりする小屋である。地名の船大工町は、当時の伝統に従って「ふなだいく・まち」と発音されていたのであろう。しかし、これは大阪の悪しき伝統で町の名前は消えてしまい、いまは北新地に「北新地大工通り」という名の通りが残っているだけである。
堂島川は物資を運ぶ船が行き来していた場所で、船を預かる船小屋も数多く存在していたらしい。
堂島は、北の曽根崎川(蜆川・しじみがわ)と南の堂島川との間に形成された中州(現在の中之島ではない)であった。曾根崎川は堂島川の分流であった。曾根崎川も埋め立てられていまはない。なくなった経緯も哀しい。1909(明治42)年の大阪市北部の未曾有の大火後(焼失家屋1万1千軒余)、焼け跡の瓦礫の捨場となり、上流部が埋めたてられ、1924(大正13)年にはすべて姿を消した。
曾根崎川は、大江橋上流部で堂島川から分流し、北西に向かって弧を描きながら、船津橋付近で再び堂島川に合流していた。元禄初期、河村瑞賢(かわむらずいけん)による大規模改修によって、生み出された新地が、曽根崎新地や堂島新地であり、茶屋が並んでいた。この川に架かるいくつかの橋は、近松の「心中天網島」(しんじゅうてんのあみじま)の道行きで謳われた「名残の橋づくし」として有名であった
堂島という地名は、その地に薬師堂があったことから、「堂」の字を採って付けられたと言われている。
さらに、付言すれば、いまでいう「北」とは、大坂の当時の中心市街地であった「大坂三郷」(北組、南組、天満組)の北に位置していたから、そう呼ばれるようになった。したがって、そこで発達した色里は、「北の遊里」・「北の色里」などと呼ばれていた。
1697(元禄10)年、当時の豪商・「淀屋」の自宅前(淀屋橋南詰の路上)で開かれていた米市が堂島に移され、「堂島米市場」へと発展し、1730(享保15)年に「堂島米会所」が開設される頃には、「北の遊里」(堂島新地)のほとんどは「曾根崎新地」へ移転していた。
堂島川や土佐堀川の船大工たちは、瀬戸内出身者、特に淡路島出身者が多かった。たとえば、現在の江之子島には、淡路屋六兵衛という有名な船大工がいたことからも想像されるように、現在の中央区の淡路町(あわじまち)には、多くの淡路出身者が住んでいた。
この地は、人形浄瑠璃の発祥地である。さらには、大塩平八郎が幕府側と銃撃戦を演じた地として有名である。
藤永田造船所の前身である兵庫屋も、おそらくは、瀬戸の速い潮流に耐える船を作る船大工たちを多く抱えていたのであろう。
同社は、開国以後、西洋式船舶である君沢型スクーナー船、木造外輪汽船の建造に取り組み、近代的造船所に脱皮した。スクーナー船は、2本以上のマストを持つ帆船で、16~17世紀にオランダが用い、米独立戦争の時期に北米でさらに発展した。日本では幕末に君沢形(きみさわがた)と呼ばれた。
【 くさり2月号より 】