関生ヒューマンスポット?≪三田ブロック≫
私は、1980年に高校を卒業して、学校の紹介である会社へ就職しました。
親と同居だったため生活はできるものの、給料は安く、将来を夢見ることは難しい状態でした。
そんな時、ミキサーの運転手をしていた父親が、労働組合を結成して当時の運輸一般に加入。その関係で、私は8月から支部の事務局に入ることになりました。
高校を出たてで労働組合の労も知らない状態の私は、旧館3階の外にあった機関紙室(別名プレハブ小屋)で、当時手書きだった「くさり」の編集の手伝いやビラなどの印刷をやっていました。
支部に入ってすぐに、オフセット印刷機のショールームで3日間の集中講座を受け、4日目からは先輩に横についてもらい、ひたすら印刷をしていた気がします。当時は苅藻島の新増設反対やバス業界の争議が多く「明日の朝までにビラ5000枚頼む」とか当日注文が多く、夜中・明け方まで格闘していましたが、今では良い想いでです。
もうひとつ忘れられないのが、阪南協事件の弾圧です。いつものように出勤すると支部の入り口に機動隊が連なっていました。事態が理解できずに説明を受けていると、各ブロックの組合員が次々に集まり機動隊と対峙。初体験の緊急動員です。「すごい組合だな」と感心し「他人の痛みは己の痛み」を実感しました。
事務局には2年間在籍し、三田Aコンクリート社へ就職しました。現在、問題になっている32項目協定を締結したマンモス集団交渉や日本初の原発労働者の組織化など、中身の濃い2年間を過ごさせてもらいました。
微力ではありますが、今後も組織で組合運動を頑張ります。
<記事:三田ブロックH組合員>
【 くさり2月号より 】