= 戦前の「大阪労働学校」ゆかりの地を探索する⑤ =
江戸時代中期の庶民の結婚式は、新郎の自宅に身内の者が集まり、床の間に尉(おきな)と姥(うば)が描かれた掛け軸、床には鶴亀の置物を飾った島台という舞台配置で盃を交わす祝言という形であった。そして、幕末から明治初期にかけては、婿が嫁方の実家でしばらくの間生活するという「婿入り婚」と呼ばれる形式であった。そして、神職の祝詞(のりと)ではなく、郷土の民謡や俗謡を歌うことが多かったとされる(『婚姻の話・定本柳田國男集一五』)。
実は、多くの人は意外に感じられると思うが、「神前結婚式」は日本の古くからの伝統様式ではない。明治政府が、民間に普及させたのである。つまり、「神前結婚式」という形は、信じられないほど新しいものなのである。
明治33年(1900年)、「皇室御婚令」が発布された。その形式に則って、皇太子(後の大正天皇)の結婚式が初めて宮中「賢所大前」(かしこどころおおまえ)で行われ、同様の神前結婚式を挙げるという気運を国民の間に煽るべく、東京の「神宮奉賛会」(現在の東京大神宮)が皇室の婚儀を参考にして民間での「神前結婚式」の様式を定めた。そして、翌、明治34年(1901年)3月3日に模擬結婚式を開催した。今日「神前式」として行われているものは、この神宮奉賛会が創設したものが基本になっている。
そのまた基本になっていたのが、悪名高い「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)である。悪夢そのものの、この「廃仏毀釈」の暴虐は、1900年には姿を消していたが、少なくとも、「夢よもう一度」という感情は根強く体制側には残っていた。それは、幕末維新の異常な平田神道の波及の名残でもあった。
「廃仏毀釈」は、岩倉具視や木戸孝允、大久保利通などが主役を演じた「王政復古の大号令」に象徴されているように、「日本の神々の統括システム」を確立するための大陰謀であった。「神権天皇」を頂点とする「国体」の創設の布石だったのである。
明治政府は、対外的な配慮から、「信教の自由」を「大日本帝国憲法」に謳わざるを得なかった。そのためにも、「神道」は、限りなく非宗教的なもの、国民の日常生活に根付いた慣習に仕立て上げられなければならなかった。その完成形態が「神前結婚」であった。
天皇の伊勢神宮参拝は、持統天皇以来、千年間なかった。この一事を見ても、ことの次第の歴史的意味が分かるだろう。
明治2年(1869年)、「東京招魂社」の祭祀が「靖国神社」の神道式になった。
江戸時代、神社の多くは寺院の僧侶の手によって運営管理されていたが、慶応3年(1867年)3月17日、「神祇事務局より諸社へ達」(たっし)で、「別当」(べっとう)とか「社僧」(しゃそう)などと呼ばれていた僧侶による神社の運営は禁止された。その10日後の3月28日、今度は「太政官達」が、神社から仏教色をいっさい駆逐すべきと命令した。
月が代わって、4月1日、比叡山麓坂本の日吉(ひえ)山王社(延暦寺の管轄)が暴徒に襲われ、仏具の多くが破壊された。「廃仏毀釈」の幕開けであった。さらに同月4、10日、5月16日にも「太政官達」や「太政官布達」が矢継ぎ早に出され、「石清水」、「宇佐」、「箱崎」などが「八幡大菩薩」を祀ることが禁止され、以降は「八幡大神」と称するように変更させられた。
「石清水八幡」は「男山神社」に、「愛宕大権現」は「愛宕神社」に、「金毘羅大権現」は「金刀比羅宮」に、竹生島の「弁才天妙覚院」は「都久夫須麻神社」に改称させられた。
そうした環境整備をした上で、同年9月8日、「明治に改元」され、「一世一元」が定められたのである。そして、貴重な文化財が、夥しい数で破壊された。悪夢であった。
【 くさり12月号より 】