= 戦前の「大阪労働学校」ゆかりの地を探索する④ =
日本最初の正確な硬貨鋳造施設は、大坂の天満に1871年に創業された「大坂造幣寮」である(詳しくは、『提言』2016年9、11月号の拙稿をお読みください)。
経験のない日本側は、鋳造作業の細かい点に至るまで、すべてと言ってよいほどの工程を英国人技師に依存せざるを得なかった。そして、英国人の幹部たちは、露骨に日本人職員を軽蔑していた。
オリエンタル銀行は、川口支店と神戸支店の間を往復する蒸気船(運貨丸)が一八七二年四月から運行し、貨幣と地金を輸送していた。創業当時の造幣寮は西洋文明の粋を集めた最先端工場であった。
オリエンタル銀行が雇用した外国人は、露骨に日本人職員を差別した。元英国植民地香港の造幣局長であったトーマス・キンダーたちの雇用契約の満期を翌年に控えた1874年夏、造幣寮の日本人職員の間からオリエンタル銀行との「貨幣鋳造条約」の解消とキンダーをはじめとする外国人の解雇を求める「寮務改革」運動が起こった。
改革運動のリーダーは、「大蔵大手」という職務にあった遠藤勤助であった。要求の中身は、造幣寮の運営、操業の指揮権をオリエンタル銀行が雇用した外国人から日本人局長に移す、外国人をオリエンタル銀行雇用ではなく、日本政府の直接雇用にすること、等々であった。
この要求を受けて、外交問題に発展することを危惧した大隈大蔵郷は、オリエンタル銀行と折衝を続けたが。不調に終わったために、1874年9月、「造幣寮の事務改革、造幣首長キンドル(キンダー)等の解雇を含む東洋銀行(オリエンタル銀行)との条約解消」の議案を「左院」(当時の立法府)に提出し、左院は同月中にこれを可決した。
大隈大蔵卿は、同月、直ちにオリエンタル銀行に所信を送り、1869年8月1日に同行と締結した「貨幣鋳造条約」の有効期限(1875年1月31日)を延長しない旨を通告した。
これに対するオリエンタル銀行の反抗はなく、契約期限の解消を了解していたらしい。また、契約解消に伴い、オリエンタル銀行が雇用していた外国人の解雇も同行の横浜支店に了解を求め、了承されたので、主だった外国人職員も同時に解雇されることになった。
1889年1月31日には外国人職員はゼロになった。造幣寮に勤務していた外国人は、1868年の香港からの造幣機械の到着以降、1874年末までに累計31名に上っていた。
ちなみに、オリエンタル銀行は、英国植民地銀行として一八四二年、インドのボンベイに「バンク・オブ・ウエスタン・インディア」として創設され、1845年ロンドンに本店を移して、「オリエンタル・バンク」と改称、1851年に「バンク・オブ・セイロン」を吸収して「王室特許状」(ロイヤル・チャーター)を取得し、「オリエンタル・バンク・コーポレーション」と再度改称し、19世紀半ばには東洋における最大の銀行に成長した。しかし、1884年5月に支払不能に陥り、解散した。
外国人の排斥運動を主導した遠藤謹助は、日本の「造幣局の父」と呼ばれている。
1863年、トーマス・グラバーの導きで、遠藤は、伊藤、井上(馨)、山尾、野村とともに英国に密出国をし、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジの聴講生となり、分析化学のほか、地質・鉱物に関する知識も習得した。
遠藤ら日本脱出組の5人(いわゆる長州ファイブ)は、1864年にイングランド銀行を見学している。同年、長州五人は、同じくグラバーの手配で日本から密出国した薩摩藩士19人と、ロンドンで出会い、以後、親しくなり、彼らが明治新政府の要人となった。とても大きな人脈となり、彼らを発掘したグラバーの新政府における影響力は巨大なものになった。彼らが、薩長同盟の基礎になったことは自然の成り行きである。
遠藤は大蔵省で大蔵大丞、税関局長、記録寮の記録頭を兼務し、一八八一年造幣局長に任じられた。「造幣局の桜の通り抜けは」彼の提唱による。
【 くさり11月号より 】