= 「政策運動」幹部教室 =
■中小企業との共闘で数々の成果が■
「政策運動」をテーマに関生支部・武洋一書記長による幹部教室が行われた。
講演のなかで武書記長は関生支部結成から今日までの政策運動の歩みを振り返り、これから解決しなればならない課題を提起した。
武書記長は次のように講演した。(以下、要約)
◇個人加盟の産別
関生支部を結成
◇
関生支部は、1965年に5分会183名でスタートした。当時は全自運(全国自動車運輸労働組合)に所属し、メーカー直系企業を組織。それぞれの職場では熾烈(しれつ)な差別攻撃があり、それに対してゲリラ的に闘っていた。
関生支部の特徴は支部が統一司令部となり、全執行権を持っていること。支部結成以前は経営者などに「アメ」をなめさせられて職場の判断で妥結することもあったが、結成以後は関生支部が確認した協定以外は認めないシステムが確立。
73年の春闘では17社による集団交渉を行い、75年には38社との政策懇談会を実現。78年9月には大阪兵庫工組を相手に「雇用保障協定」を締結。構造改善にあたり「雇用第一義」を確認し、工組が責任を負うとした。また、工組加盟社における賃金・労働条件の統一化を実現し、100億円の雇用・福祉基金にも合意した。
さらに、80年には住友資本・竹中工務店による神戸かるも島でのプラント新設計画を粉砕するという画期的な成果を獲得した。
◇国家権力の攻撃
はね返して前進◇
こうした中小企業と労働組合の共闘前進に恐れ、「資本主義の根幹にふれる」「箱根の山は越えさせない」と日経連会長(当時)の大槻文平が関生支部を強く批判。その後、猛烈な弾圧が開始される。弾圧を恐れた日本共産党は82年12月17日に突然「赤旗声明」を発表。組織分裂に至った。
分裂後、厳しい状況のなかでも関生支部はセメントメーカーにのっとられた協同組合への対抗手段としてアウト社と共闘するなど果敢な運動を展開。この時期、秩序が乱れて業界側は約1兆円の損失を被る。多くの企業が倒産したこともあり「労使対立」から「労使協調」への気運が高まった。
◇広域協組を設立
次々に成果得る◇
94年には全港湾大阪支部・生コン産労・関生支部が「関西生コン産業政策協議会」を設立。一方で経営者会が誕生し、5協組が合併して広域協組が設立される。
その後の春闘で65歳定年延長、年間休日125日・完全週休二日制、共同雇用保障制度を確立。さらに、バラセメント輸送・生コン輸送・圧送などの関連業界にも政策運動が広がった。
◇大阪が大同団結
新たな目標は…◇
現在、近畿各地の再建が影響を与え、大阪地域の大同団結・値戻しとともに、雇用・福祉基金を実現するなど大きな成果を獲得している。今後は「広域協組への6項目の提言」を実行させることが当面の課題だ。
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広域協組への6項目の提言■
①労働組合との協力関係
②協同組合の品位を汚さない
③理事職は公人職であり、私的利益は慎む
④生コン経営者会への全社加入
⑤労使の協力関係を内外に公表する
⑥ミキサー・バラセメント輸送の運賃引き上げ
【 くさり10月号より 】