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= 戦前の「大阪労働学校」ゆかりの地を探索する③ =

■記事:写真■ <大阪労働学校・アソシエ 学長> 本山 美彦

  1867年、開港の勅許がまだ出ず、開港を当て込んで兵庫に集まっていた外国人商人たちの安全を、幕府も薩長も保障できなかった。外国軍隊は、兵庫の港に軍艦を浮かべて監視せざるを得なかった。商船十数艘(そう)、軍艦数隻、等々。軍艦の半分は英国軍のものであった。開港の前祝だとして、外国軍艦からは20発を超える祝砲が放たれた。言うまでもなく威嚇行動であった。神戸の陸では、脱藩組の浪人たちが至るところで騒乱を起こしていた。

 日本国内は「鳥羽・伏見の戦」があり(1868年1月)、始まりかけていた外国人との商取引は廃り、鉄砲と弾薬の売買のみが行われていた。

 横浜では、英仏米が艦隊から護衛兵を出して、居留地の警護をしていた。神戸でも同様であった。神戸村の庄屋である生島四郎太夫(いくしま・しろうだゆう)は、外国人の身辺保護の力はないとフランス公使に告げていた。

 ちなみに、生島家は代々、神戸村で四郎大夫を継いできた。屋号を松屋と称して酒造りのほか、廻船をもって九州諸大名の用を務めてきた名家であった。勝海舟(かつ・かいしゅう、1823~99年)は、生島の別邸を住居にしていた。

 幕府廃止以来、社会の治安状況が極度に悪くなり、兵庫奉行などは逃亡していた。幕府の代官手代、奉行付き別隊組兵士などは身分がなくなったことから、その多くが無頼の徒と化した。

 それらの手合いは自称浪士の輩と共に市中を横行し、白昼人家の戸を破って住民を脅迫するやら、掠奪をほしいままにし、神戸の地は、無統治、無警察の毎日に怯えていた。

 1862年の神奈川生麦(なまむぎ)村に起こったのと同じような事件が、王政復古の日を迎えてまだ間もない1868年1月、神戸の三宮で突発した。  

 これが、明治政府の最初の外交問題となった。これは、京都新政府が、徳川慶喜(よしのぶ、1837~1913年)への征討令を発し、勤王の諸侯に兵を率いて上京することを命ずるといった社会的な不安と混乱とのなかで生じた事件である。  

 兵庫に在留する英国人の一人が神戸三宮の付近で、おりから上京の途中にある備前藩の家中の者に殺され、なお一人は傷つけられた。

 その場を逃れた別の一人が海岸に走って、碇泊中の軍艦に事の急を告げた。時に英仏米諸国の軍艦は前年一二月七日の開港以来ずっと湾内にいた。この出来事を聞いた英国司令官は、陸戦隊を上陸させた。  

 そのうちの英国兵の一隊は、生田(いくた)にたむろしていた備前藩の兵士に戦いをいどんだ。三小隊ばかりの英国兵が市中に木柵を構え、佩刀者(はいとうしゃ)の通行は止められた。  

 港内に碇泊する諸藩の運送船(およそ一七艘)のすべてが、抑留され、神戸の埠頭は英国軍隊によって占領された。  

 たまたま、300余人の長州藩の兵士を載せた船が大坂方面からその夜の中に兵庫の港に着いた。京坂地方もすでに鎮定したので、関税その他を新政府の手に収めることを先務として、兵庫開港場警衛の命を受けて来た人たちであった。  

 英国兵は、長州藩の兵士たちだとは分からないまま、備前藩の兵が大挙してやって来たのだと誤認し、応戦体制を敷き、まさに発砲するばかりになった。

  【 くさり10月号より 】

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