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= 戦前の「大阪労働学校」ゆかりの地を探索する② =

 ■記事:写真■ <大阪労働学校・アソシエ 学長> 本山 美彦


 鎖国時代でも、江戸幕府は、四か国だけとは付き合っていた。「オランダ」、「清」、「朝鮮」、「琉球」がその四か国である。

 付き合っていたと言っても、四か国は、二つに区分されていた。それは、「正式な国交のある国」と、「正式な国交のない国」との区別である。

 「正式な国交のある国」は「通信国」と呼ばれていた。朝鮮と琉球がそれである。現在、なにげなく「コミュニケーション」の意味で使っている「通信」という言葉には、封建制の露骨な権威主義が刻印されている。日本の将軍が、国王として国書を持たせて、外国の国王に「挨拶文」を送り、今後、国同士のお付き合い(これを信=よしみという)をしたいと申し出る。相手国王がその申し出を受け入れれば、「信」(よしみ)」が「通」(かよ)い合った、つまり、「通信」が成立したことになる。これが、「正式な国交」の樹立である。

 ただし、「通信国」とは、商業ベースでの貿易は行われなかった。行われたのは、「朝貢」による物資の交換であった。ここには、露骨な国家間の支配・従属関係が強制されていた。「通信国」は、江戸幕府に「貢ぎ物」をしなければならなかった。

 他方、「正式な国交のない国」でも、商業ベースで貿易を行う国は「通商国」と呼ばれた。「オランダ」と「清」がそれであった(石井寛治『日本経済史、第二版』東京大学出版会、2009年、59ページ)。

 明治新政府は、1879年に独立国であった「琉球」を併合し、1910年には「韓」国を合するという暴挙に出たが、江戸時代には、通信使節の接待面で、露骨な差別待遇はなかったようだ。

 朝鮮通信使節の来日は、室町幕府の足利義満への挨拶(1375年)が最初で、その後、一行の数も数百人の台規模なものとなっていた。豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮侵略戦争(文禄の役=1592~93年慶長の役=1597~98年)による中断はあったが、江戸時代には、1607~1811年に合計12回、幕府の将軍交代などの時期に合わせて通信使節は来日した。

 来日時には、友好を確認する国書交換などの外交と並んで、彼らは、各地で学問や文化の交流を繰り広げた。朝鮮通信使節団については、日韓両国が、現在、協同して、ユネスコの「世界記憶遺産」への2017年度登録を目指して資料を作成中である。日本側は、48件209点、韓国側が63件124件、計111件333点の資料を整理している(『朝日新聞』2016年2月20日夕刊)。

 朝鮮通信使節の一行は、釜山を出港して対馬、瀬戸内海、淀川河口の九条島を通って、この川口で船を降り、そこから川御座船に乗り換えて淀へ、淀からは陸路で江戸へ向かった。川口では、一行を歓迎する行事が催され、大坂中が祭騒ぎになったと言われている。

 竹林寺(ちくりんじ)には、第11回目(1764年)の朝鮮通信使の一人「金漢重」(キム・ハンジュン)の墓がある
(「九条島に眠る朝鮮通信使の悲話を訪ねて ~韓人塚・金漢重(キム・ハンジュン)ものがたり~」
『大阪であそ歩』https://osaka-asobo.jp/course/pdf/m/open/i/156)。  

 松島公園には朝鮮通信使節の石碑もある。

 【 くさり9月号より 】

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