= 戦前の「大阪労働学校」ゆかりの地を探索する① =
■記事:写真■ <大阪労働学校・アソシエ 学長> 本山 美彦
社会運動の新境地を拓いた「連帯ユニオン・関生」、そして、誕生間もない大阪労働学校・アソシエを育む学働館・関生が拠点を置いている大阪市西区川口(かわぐち)地区は、明治維新後、神戸、横浜とともに、外国の貿易商人たちが行き来する居留地であった(1868~1899年)。
数少ない最初の居留地であったというだけでなく、この地を中心とする安治川(あじがわ)流域は、(「汽笛一声新橋を」で始まる)鉄道唱歌(第一集・東海道篇、第五八節、1900年発表)にも謳われているように(「ここぞ昔の難波の津、ここぞ高津の宮のあと、安治川に入る舟の煙は日夜たえまなし」)、大阪の代表的な工業地帯でもあった。
当然、労働運動の草分け的存在でもあった。
賀川豊彦が主導する「大阪労働学校」も、この地の労働運動の高揚を背景にしている。
川口を含む安治川流域は、江戸時代には、新鮮な近海魚を取引する大きな規模の「雑魚場」(ざこば)があり、非常に賑わっていた。明治・大正時代には、東洋のマンチェスターの本拠地でもあった。
しかし、いまでは、多くの日本人は言うに及ばず、大阪人、しかも、地元の人たちですら、川口の歴史に思いを馳せる人は皆無に近い。
無理もない。現在のこの地は、「中之島西」という「阪神高速三号線」のランプ、大きな倉庫群、安治川に浮かぶまばらな艀(はしけ)、北岸の、1931年に創設され、日本最大級の「本場」(ほんじょう)として親しまれてきたが、殷賑(いんしん)が過ぎ去った感のある「大阪市中央卸売市場」、などが目に付くだけである。
江戸時代、この地には、「大坂船手組」(おおさかふなてぐみ)という、地域の治安維持を任務とする幕府職制の組織があった。
治安維持任務のなかでも重要なものは、木津川や安治川を往来する船の管理であった。
戦国時代の海賊を出自としていた彼らは、江戸時代に幕府水軍として取り立てられ、幕府お抱えの特権的大組織として、船番所や組屋敷を設置して安治川流域を支配していた。
西欧諸国の圧力に屈して、開港を決意し、新しく港湾を整備して、船手組の利権を奪いたくなった江戸幕府は、勝海舟の進言を受けて、1864年に大坂船手組が拠点としていた土地を召し上げ、同組に所属していた船乗りたちを「神戸海軍操練所」に移し替えた。
維新後、彼らを追い出してできた広大な空き地に、外国人居留地が建設されたのである。
26区画が競売に付され、瞬く間に完売した。直線的な道路、瀟洒(しょうしゃ)な街灯と美しい街路樹の並木、等々、西欧的な町並みが整備された。
川口の居留地には、多くの外国貿易商人だけでなく、キリスト教の宣教師たちも多数移住してきた。
彼らが創設したミッション・スクールとしては、平安女学院、プール学院、大阪女学院、桃山学院、大阪信愛学院などがあった。
しかし、そのすべては、他地区に移転してしまっている。
それどころか、現在では、旧居留地の建物は、1881年に定礎された日本聖公会大阪主教座聖堂川口基督教会があるのみである。
そもそも、川口の北に流れている安治川は、一六八四年に、著名な河村瑞賢(かわむらずいけん)によって、付け替えられたものである。
安治川は河村瑞賢の命名である。大川の中之島より下流には、河口に蓋をするように九条島が横たわっていたが、この島を河村瑞賢が開削分断し、安治川右岸側は西九条と呼ばれるようになった。
沿岸の三角州には江戸時代半ば以降新田が作られたが、明治以降工業地帯へと変わっていった。
そして、川口も含めて西野田地区の工場街となり、賀川豊彦が創設した「大阪労働学校」を支える労働組合を数多く生み出したのである。
【 くさり8月号より 】