(1994年11月発行「風雲去来人馬」より)


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第2章 政策課題と産別闘争の歩み


第7節 セメント独占・国家権力・日本共産党による大弾圧と
集団的労使関係の破壊 1982年夏~1984年
「箱根の山を越えさせるな」-三菱先頭にセメント総がかりのシフト

81年の工組との連帯雇用保障協定の締結、特別対策委員会の設置という政策闘争の前進は全国的に大きな注目を浴びた。
反応が早かったのは何よりもセメント独占資本である。とりわけ、いずみ運輸、鶴菱運輸で連続して苦杯をなめた三菱鉱業セメントの対応は早かった。大槻文平氏が会長をつとめている日経連は、その機関紙『日経連タイムス』紙上で生コン型運動に対する経営者の警戒を発した。また会長自ら「関西生コンの運動は資本主義の根幹にかかわるような闘いをしている」とか「組合運動の範囲を越えた組合があって、セメントの不買なども行われており、こうした動きは十分警戒しなければならない」(『コンクリート工業新聞』81年6月11日)とまで発言した。
また業界紙『セメント新聞』は「紛争多発に生コン業界危機感、セメント各社社長に要望」と掲載し(5月11日)、全国の生コン業界に大きな反響を呼んだ。
12月にはセメント協会会長が大槻文平氏の「生コン支部憎し」の号令をうけて生コン支部シフトの体制を確立した。三菱鉱業セメントの小林久明社長を中心として流通委員会(生コンを含む)と労務委員会との合同対策委員会を新たに設置した。セメント流通の要は何よりも生コン業界対策であり、その鍵は労務管理にある。合同対策委員会は明らかに生コンの労使もろともへの対策であり、以後関生支部への権力弾圧を指示する総司令部となる。三菱を先頭に独占資本が総がかりで牙をむいて関生支部シフトを布いたのである。
この時期の『セメント新聞』の一連のキャンペーン(82年6月15日より連載)は、このような独占資本=セメント協会の意図を露骨に表現している。「大阪における工労連帯の構図」というタイトルのこの連載は、生コン支部の運動が「工労一体的な運動をしている」と叫びたてる。「工業組合と労働組合が提携をして独占への闘いを挑んでいる。これは人民公社的な運動だ。この闘いを放置してはならないし、『箱根の山を越す』ようなことをさせてはならない」(要旨)という訳だ。
独占資本が恐怖を感じるのは或る意味で根拠がある。神奈川での鶴菱闘争が運輸一般セメント生コン部会の全面的支援を得て三菱に勝利したのが81年6月(第3章第10節)であり、東京地区生コン支部の運動と組織が飛躍的に前進したのも80年から81年にかけてである。セメントが嫌悪する「関生型運動」が先ず名古屋に飛び火し、静岡から東京へと広がっていったのだ。すでに闘いは「箱根の山を越え」てしまった。

権力にとって「許せない3つ」の行動

セメント独占の生コンシフトの整備・確立を受けて喜んだのは警察権力である。
これまでも常に生コン支部の争議に介入をつづけ、或る時は右翼暴力団、一部には「御用組合」同盟と絶妙のコンビで弾圧を繰り返してきた警察である。80年9月には「阪南協事件」をデッチ上げて、強制捜索・逮捕・起訴を仕掛けたのが手初めだ。82年に入ると1ヶ月に1回位の割り合いで「ガサ入れ」が来るようになる。労働協約で締結している事項について「強要・恐喝があったのではないか」「暴力事件があるのではないか」とデッチ上げし、ガサ入れ・逮捕をくり返す。
そんな警察にとって先のセメント協会社長会の決定(81年12月)は待ち望んでいた朗報である。82年初め、大阪府警は東淀川署に「対策本部」を設置し、常時30~60名のプロジェクトチームを編成して弾圧作戦を本格化した。
この時の権力の狙いがセメント独占資本の意向に如何に忠実であったかは、次の事を指摘すれば足りる。警察は逮捕した我々の仲間に対して、取り調べの中で次のように言った。「生コン支部の運動の中で許されないのが3つある。その一つは背景資本に対する取り組みである。下請・孫請の労働者の雇用責任を三菱とか住友とか親会社にもっていく。このような運動は問題だ。今一つは不当労働行為を解決するにあたって実損回復のみならず、経営者に対しペナルティを課してきたが、これは行き過ぎだ。もう一つは企業の枠を越えた連帯行動と称して、いわゆる同情ストライキをやっているがこれは違法だ。労働組合のない所に動員をかけたりするのも違法だ」という。
「許せない3つ」の点は、これまで生コン支部が自ら誇りとする闘いの成果であり、逆にセメント独占資本にとって「許せない」ものばかりであり、ぶっ潰したがっているものである。権力弾圧の狙いが奈辺にあるかは明らかだ。

専業主導の工組体制のマヒ、集団的労使関係の崩壊/82年

あいつぐ権力弾圧(82年の逮捕者9件32名)でも生コン支部の息の根をとめる事はできなかった。
セメント独占の意をうけた権力の弾圧のほこ先は、次に生コン業界、工業組合へ向けられた。既に前年81年9月に右翼団体に籍を置く者たちが「民主化グループ」を自称して、工組執行部批判を平然と開始していた。その狙いは労組と工組との共通の政策要求を潰す事であり、「民主化」ならぬ工組・協組体制をセメント主導下に後戻りさせようとするものだ。
明けて82年、セメント価格の一方的値上げに反対して労組は直系工場で無期限ストに入り(2月27日)、協組の側は一部で値上げ分不払の決議も出て、セメントと全面対決の様相となった。
そんな矢先の3月1日の強制捜索である。大阪府警は「強要ならびに名誉毀損」で工組、協組、銀行、組合等8カ所を捜査した。スト権の行使が「強要」であり、暴力団とつながりのある社長の退陣要求が「名誉毀損」だというのである。押収したものは名簿など組織関係のもの、そして会計帳簿(!?)である。
次いで3月30日、31日には工組、労組の事務所や自宅が「背任」で捜索された。
前回の捜索で会計帳簿が押収され、銀行までが捜索されたので分かるように、権力の弾圧の狙いが労使協定で定められた解決金支払を全て「恐喝」に仕立てあげようとするものである。協定の一方の当事者である工組側の代表者を「背任」でデッチ上げ、工組内での失脚をはかろうとするものだ。
その後7月に武藤元理事長、田中もと常任理事、中司元理事が逮捕された。結局、田中氏のみ起訴されるが、何ら「背任」や「横領」の事実はなかった。裁判は1984年3月30日に無罪判決が下された。理由は「労務対策資金として被告(注・田中氏)に使途を一任されていたので、工組の公金を着服、横領した事実はない」というものである。
泰山鳴動して鼡一匹、あれだけの強制捜索と大量逮捕の結果が、この完全無罪判決である。だが「鼡一匹」といったが、この弾圧は別の大きな結果を生んだ。
工組体制のマヒであり集団的労使関係の崩壊という結果を招いた。『月刊生コンクリート』誌いうところの「工労連帯の終焉」である(84年10月号)。
強制捜索の後、82年4月に武藤氏が工組理事長を辞任。「協組、工組の主導権を専業生コンから奪回する事により、工労連帯を断ち切る戦術」であったセメントにとって、この工組執行部辞任は「セメントの戦略実行のチャンス」(業界月刊誌『月刊生コンクリート』84年11月号)であった。
対労窓口の交渉団にはセメント直系が配置された。8月には溝田氏(枚方小野田)が理事長に就任し、セメント主導体制を確立するもセメント直系内部の対立で崩壊状態におちいる(11月~12月)。

溝田工組体制への追撃と動揺

セメント業界の要望を担って登場した溝田新体制はこれまでの工組の一切の協力・約束事項を全て否定する方針をうちだした。第一に32項目協定の選別対応という名の不履行である。第二に「正常化」方針。ストへの賃金カット、45時間残業保障の打ち切りである。第三に労組への全面対決のための保障としての相互扶助、いわゆる「赤黒調整」の実施である。工組決定への組合ストによる「被害」を相互に資金や仕事で援助する安全保障体制である。
この経営側におけるセメント主導の巻き返しに対して労働組合の側の対応はどうであったか。82年3月の工組、労組双方への大量逮捕をきっかけに政策委員会内部の4労組間の意見調整が困難となってきた。7月7日の政策委員会では今後の工組・協組への対応は各労組毎に行うという確認(七夕確認)がなされた。政策委員会が事実上分裂し、11月21日は特別対策委員会事務所が廃止・閉鎖されてしまった。
この4労組間の共同行動の破綻について、生コン産労は次のように評価している。「業界における複雑な労使関係・・・・から生じる混乱は業界の混乱につながり・・・・雇用不安として波及する事は明らか」であるとして、今後は「雇用安定」に重点をおき「階級闘争紙上主義的視点での闘争を排する」(産労執行委員会、83年2月28日)としている。要するに共同行動の以前からあった4労組間の理念・路線の違いを再びむし返しているにすぎない。
工組との共同交渉の凍結、32項目についての責任不履行のつづく中で、生コン支部は独自体制で協定遵守の闘いを82年3月以来年末までとりくんだ。(一)7月からの早出・残業拒否、(二)順法闘争、(三)ストライキの多様な闘いである。特に10月下旬からの指名ストでは、経営側の出荷調整をズタズタにし、生コン納入が10日から2週間以上も遅れるという事態も生まれた。
11月13日、セメント主導の溝田執行部は生コン支部の攻勢に耐えきれず、ついに政策委との間で、32項目の履行を前提として協議する事を約束した。次いで12月24日の特別対策委員会で、(一)工組の人事体制は専業主体でバランスのとれた人事を確立する、(二)その体制で約束事項の履行にあたると回答した。
この確認は「専業主導体制に再転換を認めたもの」であり、「セメントの腰の弱さに愛想が尽きるような出来事」(『月刊生コンクリート』84年11月号)であった。
だがセメント独占にとっては思わぬ援軍が現れた。

運輸一般「声明」による混乱/83年

日本共産党機関誌『赤旗』史上に突如として発表された運輸一般中央本部の「権力弾圧に対する基本的態度」なる声明(第4章参照)である。いわゆる「12・17声明」である。
同声明は今回の原因を「社会的一般的行為として認められない事態が下部組織にあった」からだとして、権力弾圧にさらされている仲間を平然と切り捨て、権力に手を貸した。以降、生コン支部内の一部党員グループの分裂策動、日本共産党および運輸一般中央・各地本による政党の労組介入・支配・分裂攻撃が一年間にわたりくり返される。
この日本共産党による背面からの襲撃に諸手を打って喜んだのがセメント独占資本である。
81年春闘協定・約束事項、いわゆる「32項目」を全く履行しないばかりか、専業主導の工組体制を総力あげて潰しにかかった。83年2月の工組理事会めぐる人事にセメント直系7社グループが介入し、「刑事被告(田中氏、翌年無罪)を含む役員人事は不適格」と動議を出し、流会させてしまった。
この直系7社グループは83春闘の最中、3月に労務機関「弥生会」を結成し(3月12日、21社28工場)、対決姿勢をあらわにした。5月にはセメントメーカー主導の工組人事を確立した。田中氏を含む宇部グループは工組体制から排除され、協組からも脱退するという事態に追い込まれた。
この日本共産党による生コン支部への背後襲撃という〝援軍〟を得て、セメントは工組体制を掌握し、集団的労使関係を崩壊させる事に成功した。この年、セメントメーカーは、①政策委員会の事実上機能停止、②政策委と工組との共同集団交渉潰し、③権力弾圧と運輸一般「声明」による生コン支部への混乱を背景に勝利宣言を行った。

セメントの対生コン労務機関「弥生会」の結成

ここで弥生会が結成された事情について触れておこう。
83春闘では、セメント・権力による政策委員会分断攻撃によって4労組がそれぞれ個別に集交をもつ事となった。生コン支部の集交は3月16日に80数社が集まり支部から要求説明、次いで28日に会社側の回答と進められていった。
ところが住友セメント直系の堺西協生コン社等破砕書から回答の定時すら拒み、中途から退場するなど強硬な対労組姿勢をとりつづけた。この中途退場した会社を中心に結成されたのが弥生会である。その名の通り「弥生三月」結成のこのグループはセメント直系企業で構成された。三菱セメント、住友セメント、小野田セメント、日本セメントという独占4社の系列が中心となり、八幡、麻生、敦賀の各系列も含め21社(7系列)で構成された。
この弥生会結成の中心で動いたH田西協生コン常務は次の様に語っている(86年6月23日、大阪地労委での証言)。弥生会に集まったグループは「工組連合会の時代に労組との密室運営の中で直系排除の動きがありまして、それでおのずと(危機感をもった)直系社が集まって、より結束していった」という。そして関西での労使間の「力の不均衡」に対して「直系主体で直系社の身を守ろうと結束して行った」のだという。中心となって動いたのは、「小野田、日本、住友、三菱の4社が主力」であり、「争議等によって損害をこうむった場合には弥生会全社でその損害を負担する」という体制まで組んでいる。
翌84年には大阪、徳山、三井の直系社および輸送専業社も加盟して、セメント10社の労務委員会と弥生会の代表幹事との間で協議を行い、弥生会として団体交渉の委任をうけている。

弥生会による協定破棄攻撃/84年

セメントメーカーの巻き返し攻撃の最中、党員グループと運輸一般中央。関係4地本による生コン支部破壊攻撃は、先の「12・17声明」後もくり返され、ついに83年10月、分裂を強行した。
経営側はこの日本共産党=運輸一般分派集団の加勢を得て、一気に生コン支部潰しにかかった。権力も又また「ダンプセンター」「三生神戸」「北大阪菱光」と3つの事件をデッチ上げて、強制捜索・大量逮捕を行った。3件はいずれも日本共産党=運輸一般分派が支部に対し挑発し「事件」を作ってから、国家権力が介入し生コン支部のみを「犯人」に仕立てるというものだ。
さて経営側の尖兵はいうまでもなく弥生会である。84年春闘を前に同会は「労使協定一部解約通告書」(1月20付)を各労組に出した。内容は、(一)45時間残業保証制度の解約、(二)組合用務による不就労・ストライキについての賃金保障の解約である。
残業保障協定はいうまでもなく、長時間残業をつづけて生活を成り立たせていた時期からの生コン支部の生活最低保障要求である。企業の社会的責任として毎月の労働に対する賃金の本給分を補う生活給である。それを「空残業」と称して、権利を奪おうとするものだ。支部による計算でも、この解約による労働者1人当りの実損は例えば10時間カットされただけでも2万5千円も月々減収となる。他労組は一様にこの解約をうけ入れ、後に運輸一般分派などは「国鉄のカラ残業、ヤミ手当と同じだから仕方ない」と機関紙で同調し、段階的削減に自ら応じている。
組合用務への賃金保障もまた生コン支部のこれまでの成果だ。不当労働行為が日常茶飯事のようにまかり通っていた職場の状態を経営者自らが改善するための手だてとして、時間内組合活動の自由と職場の団結権を認める為に協定化されたものだ。
弥生会は単に工組との間での集団的労使関係や32項目協定を破壊しようとしただけでない。それ以前からの生コン職場の民主化、団結権の確立そのものを根こそぎ奪い、賃金・労働条件をはじめ全面的に切り下げんとしているのだ。
弥生会による工組ハイジャックと労使関係「正常化」攻撃の中で、生コン業界の秩序は混乱を極めた。従来、工組の下に一本化していた対労窓口は乱立した。84年6月20日には38社の参加で「生コン専業会」(会長原田孝太郎泉州生コン社長)の結成をみた。その後「専業会」に参加しなかったセメント追随企業が集まって「生コン経営者会議」を結成したが、同会は第二弥生会としての役割に終始している。こうして84年広範からは経営者団体が、①弥生会、②専業会、③宇部グループ、④経営者会議の4つの分裂していった。

 
第8節 「32項目協定による団交応諾命令」(大阪地労委)と中労委協定
                               1984年2月~1988年
工組、32項目協定遵守の団交を拒否/84年2月
1984年は前年の弥生会結成とそれによる工組人事のハイジャック=直系主導体制づくりをうけて、経営側の全面的巻き返しの年となった。1月には協約の一部解解約が通告された。
そして2月15日には工組が加盟団体から提出されていた団交権の委任状を委任者に対し返還した事を通知してきた。これは委任状をもう返したから今後は団交に応じられないという嘘の口実を作るための次の布石であった。
工組の動向を察知した関生支部は、工組に対し32項目の遵守に関する団体交渉を申し入れた。ところが、工組は団交当事者としての適格をもっていない等の理由をこじつけて、団交を拒否してきた。そして今後も応じられないとして、32項目協定に関する交渉および協定の遵守・実行に一切応じようとしなくなった。
これはこれまでの工組自らが確認し締結してきた協定の否認である。「工組との交渉は労働組合法に基づく、労使関係の行使である」事や、その合意事項は「労働協約としての効力をもつ」事が確認されてきた(81年3月27日、協定)。工組の団交当事者としての立場は新設された大阪兵庫生コン事業者団体連合会(連合会)に移され(同7月)、その連合会との間の協約については「工組が連帯して協定の履行に責任を負う」事が確認されてきた(同8月1日)。
そしてこの連合会と政策委員会(労組)との間でも、これまでの合意事項を整理して32項目(別紙)の内容が確認された(同8月3日)。
この時点では32項目の協定についてその履行責任を工組が負うことは明らかであった。だがこの協定に示される関西の生コン業における集団的労使関係を指して「工労連帯」だとか「人民公社」だといって批難してきたセメント独占にとっては、全力をあげてこの協定の履行・実現をぶっ潰したいという要求のままに突っ走るしか道は残されていなかった。
団交応諾求め大阪地労委へ提訴
最初は警察を使っての関生支部への権力弾圧である。次は集団的労使関係の弱い環である工組への弾圧である。これには右翼暴力団も端役で登場した。第三は日本共産党である。関生支部の闘いが独占資本を追いつめた為にその反撃を招いてしまった。その余波が共産党に来るのを防ごう、という一心で日本共産党は動揺し、関生支部の組織分裂攻撃に奔走することになる。82年末の「12・17『赤旗』声明」から「平岡ニセ組合」までの1年間に及ぶ日本共産党による分裂攻撃である。
その間もあらゆる口実で権力弾圧はつづけられた。
その仕上げは弥生会の結成であり、今度の工組による団交拒否である。80年9月の阪南協事件から警察権力・日本共産党・弥生会と、その度に役者を変えての一連の攻撃の狙いはただひとつの点に絞られていた。
集団的労使関係とその具体的成果である32項目協定の実現を、何としてでも阻止することである。
関生支部は82年夏以降の協定遵守闘争をひきつづき闘うと共に、この団交拒否に対して84年2月25日には大阪地労委に対して、「工組の団交応諾命令」を求めて提訴した。工組が弥生会=セメント独占の主導下で攻撃に転じ、労組の側でもその攻撃の前に膝を屈し、まず同盟交通労連が、次いで日本共産党=運輸一般が「32項目など存在しない」と声をそろえてはやしたてている最中である。こうして協定遵守をめぐる闘いは第三者的機関にもちこまれた。
工組の雇用責任を明確化した「木原確認」/78年9月

工組は様々な名目をつけて、工組の「事業目的」からいって団交の当事者となる事はできないと言いだしはじめた。
だが工組の「事業目的」である構造改善事業においては、設備の共同廃棄が大きくとりあげられており、工場の休配転は必然的にそこで働く従業員の雇用・労働条件にひびいてくる。だからこそ構改計画の進展と協力については労組の側も慎重な態度をとりつづけてきた。つまり近代化だとか構造改善事業だと称しても、結局は工場を閉鎖したり、労働者の首を切ったりする合理化・省略化である。労組としては当然、そこで働いている労働者の雇用保障が実現できるのかという事が大きな問題になってくる。そしてこれまでも労組が中心になって中小企業が生き延びる方式の産業政策を提起してきたという経過がある以上、これからの近代化=構改事業において労組が関与するという事も大きな関心の的であった。
こうして工組が近代化事業計画を申請(79年1月10日)する直前に、工組と関生支部との間で合意が、いわゆる「木原確認書」(78年9月)が交わされた。当時の大阪兵庫生コン工組の木原理事長との確認の第二項は次のように記されている。「本事業計画の実施に伴う関係労働者の雇用不安を払拭するため、本組合は雇用確保を第一義とし万全の措置を講ずる」。そして実施にあたっては「関係者と事前協議し一致点を見出すようにする」(第三項)ともある。
構改事業のような一産業全体の視野で行う事業において、個々の企業で雇用対策について実効性を確保するのは困難であり、それを業界全体として工組が雇用責任を負うというのがこの第二項である。こういう約束をとりつづけたからこそ労組としても構改事業への積極的協力にのりだしたのである。もともと労組の中では「合理化絶対反対」という市営が非常に強く、「構改」へは反対の声が大きかった。
雇用責任が個々の業者にではなく工組にある事、業界としての雇用保障が制度として確認できたからこそ、「構改」にあたっての合意が成立したのである。
この雇用責任についても、その後になって工組側は「単なる雇用の斡旋」にすぎないと言い始めた。
だが82年3月末に第一次集約が行われた時、約500人が希望退職に応じたが、なおも残る余剰人員については工組が出資して新会社を設立し、雇用の受け皿を作る事が計画されていた。大阪兵庫生コンクリートサービス会社を作り、その会社には労組の代表も取締役として参加し、工組と労組による管理会社にして雇用責任をとっていこうというものだった。
工組が実際に出資して雇用するという責任のとり方である。又、行き先が決まらない場合には工組が資金を保障する事、新しい業種を開拓する場合には工組が職業訓練するとかが確認されていた。だから単なる「雇用の斡旋を約束しただけ」という工組の主張は、この「木原確認書」とそれが作られるに至った経過からしても全く根拠がない。
次に同確認第三項での事前協議のとりきめも、工組による一方的な工場廃棄に対する組合からの関与権、協議・合意を前提とするという事を確認し約束したものである。
この「木原確認」の後に労使双方による定期的あるいは不定期の懇談会がもたれるようになり、工組の中に設置された各部会のうち労務部会がこの窓口を担当するようになった。後に「近促法に基づく申請書」が工組から提出されたが、同文中にも新たに設置すべき設備という項目に保養所の設置とかレクリエーションの実施等が記されている。これらはいずれも「32項目」を構成するものであり、工組自らが責任もって遂行する事業として認めている。

労組法上の使用者としての工組

交渉権についても同様に工組の主張はデタラメ極まりない。
1979年頃から工組は集交に参加していたが、80年の時には賃上げ等については直接雇用主との交渉も行いながら、一方で未組織企業をも拘束さざるを得ない要求(例、休日)については工組の方が責任を負うという形で進んでいった。協定内容の適用範囲が拡大されていったのである。80年の年間104休日の協定がそれである。
ところが協定違反が出て、警察が「事件」に仕立て上げる、いわゆる「阪南協事件」が起こった。労使交渉で決めた内容に権力が介入した。
この「事件」を教訓にして、工組と労働組合の約束事についても文書ではっきりと明示しようという事になる。工組というものが労働組合法上の使用者団体である事を明文化するに至ったのが、81年3月27日の協定である。従来の交渉形態をあらためて文書の上で協定として確認し、権力による介入を阻止する役割をもたせた。
こうして81春闘からは工組との間で賃上げはじめ労働諸条件について交渉する事になった。従来は雇用保障と休日の2つについてだけの交渉であったのが、交渉議題そのものが労使関係全般にわたるようになった。
後の「32項目」の伊津部を構成する種々の項目である100億円構想等については、この工組との間の交渉で確認され協定化され(81年4月15日)たが、未解決の問題が残り、継続して交渉が続行した。
団交応諾をめぐる地労委での工組側の主張の第一点である。「工組の目的からして使用者団体たる立場にない」という主張は、この79年から82年にかけての工組を当事者とした集交の経過や実体、そして工組自らの手になる確認と全く相反するものである。

衆人環視の下で締結された81年協定

この地労委で被申立人となった工組とは83年の直系による工組人事のハイジャックにより発足した執行部であるが、この直系主導工組は地労委でも81年4月協定とそれが整理された「32項目の確認」についても全面的否定の主張を行った。81年4月の協定などは「工組の一部(註・当時の執行部)が勝手にやったものだ」とか「工組での報告がなく全然知らされていない」と嘘を並べたてている。
だが協定が締結された日の集交とはどんなものであったのだろうか。企業の方からは多い時には150社余が参加し、労組の方も労組100人が参加していた。その上大阪兵庫生コンクリート工業組合労務部会からは「交渉議事録」まで発行され、他にも特別対策委員会議事録も双方確認の上で随時発行されている。
工組現執行部(注:94年当時)が「全く知らなかった」とか「一部の者がやった」といってもそれは通らない。総勢250人近くの参加で議事録まで確認して、衆人環視の下での話し合いであり協定の締結である。だから工組の現執行部である直系グループが「知らなかった」のでは決してなく、81年当時の執行部の行った確認が直系にとって呑めるものでなく、後になって無理やりぶっ潰しにかかったというのが事の真相である。

「虎の尾を踏んだ」関生支部

こうして32項目の履行があいまいになって行き、ついには「そんなものは口約束程度であり元々存在しなかった」とまで言いだしはじめるようになった。
そのきっかけはセメント協会の側からの圧力である。中小企業と労働組合とが共通の政策要求で一致し、セメントの独占価格や投資計画を規制したり、独占資本の圧迫に対置し中小企業を主体に生コン産業の自立をはかるという方向がやり玉にあがった。日経連大槻会長やセメント協会にとってこれは「人民公社」であり「資本主義の根幹を揺るがす」ものだ。
関生の政策闘争そのものがセメント独占への反逆であり挑戦であるととられた。
生コン支部の闘いもついに敵の聖地としている所へ踏み込んだのだ。「虎の尾を踏んだ」のである。慌てて総反撃に移ったのがセメント独占資本であり、その攻撃(権力弾圧)のすさまじさにいち早くしっぽを巻いて逃げ出したのが日本共産党である。
セメント協会の中に生コン対策委員会を設置し(81年12月、本章第7節)、そこが関西の生コン業界への直接指導にのり出し、大兵工組の執行部に対し「改善」を強く求めはじめた。工組の武藤理事長、対労交渉の田中団長に対して7項目ほどの「改善」を迫った。
内容は、①項組内の政策委事務局(労使双方で構成・常駐)の解体、②労働4団体との集交の中止、③設備投資への労組の関与(共否認同廃棄、新増設抑制)等である。これに対し工組側は「大阪兵庫の事情があり工組にまかせて欲しい」と拒否をつづけた経過である。
これが82年の1月から2月にかけてのやりとりであり、業を煮やしたセメント協会側の怒りが82年3月からの工組への「背任容疑罪」でのデッチ上げ捜索・逮捕事件(これは無罪になった)につながっていく。工組執行部や労働組に警察権力を入れて揺さぶりをかけ、その過程で工組の中から「今までの約束は前執行部の独断専行であった」とか言い出すようになってきたのである。

全32項目の存在・履行の曖昧化/82年8~12月
工組執行部への弾圧・逮捕によって工組側の交渉窓口が出席できなくなった事を理由にして、新しく工組窓口になった担当者はこれまでの確認事項を反故にしようとしてきた。
これに対し82年8月3日4労組と工組新体制常任理事会との間で交渉が尾こなれた。労組側の説得によって工組新体制は「工組として、連合会で決められた事の責任回避はしない」事を約束した。
次いで8月11日の工組理事会と4労組との間での第2回交渉でも、前回工組側から要求されていた「これまでの確認・約束事項の文書提出」について、労組側から「32項目」の内容として整理され、提起された。但しこの「32項目」というのは単に組合側の一方からの「言い分」という事ではなく、事前に、前回交渉からこの交渉までの間に工組事務局、連合会と4労組との間で協議し、すり合わせをして整理してものである。
8月30日第3回交渉の頃から工組の本音がチラチラ出はじめてくる。この交渉では「(32項目については)具体的なつめができていないので回答できない」という姿勢に変わってきている。但し「32項目など存在しない」等とは決して言っていない。工組新体制としては7月の工組逮捕事件もあり、自分達には権力がバックについているからと強気に転じだしたのであろう。9月10日の第4回交渉では工組は32項目について何ら具体的方策もなく開き直りに終始した。
関生支部は9月11日から早残拒否、10月26日から指名スト含早残拒否の闘争に入り協約履行を迫った。
「赤旗声明」で工組、一気に協約否認・不履行へ/83年
こうして82年11月13日、工組は関生支部の追求の前についに協約履行を約束した。業界紙でも「大阪労使紛争が解決」と報じられた(「コンクリート工業新聞」12月9日)。内容は「諸協定を履行する事を前提に32項目の具体化については労使協議する」というものである。
ついに工組をして32項目の具体化へ土俵に載せるところまで追いつめたのである。
ところが思わぬ所にセメント独占を応援する伏兵が旗をあげた。その直後の12月17日の「赤旗声明」である。「百万の援軍」(「連絡会」結成時の引間発言)を得たのは工組であり、この「声明」を得て一気に協約否認・不履行に至ったのである。
関西生支部もまた「赤旗声明」から分裂に至10ヶ月近くの内部闘争、組織混乱にその勢力の大半を奪われてしまった。協約履行を迫っての工組への追求に力を集中するどころでなかった。さらに83年10月からの分派への組織的処置をめぐって生まれた混乱に乗じた、分派による告訴とタイアップした警察の弾圧が追いうちを掛けた。
権力弾圧のすさまじさと関生支部の混乱を見てたじろいだ同盟産労は「32項目等は立ち話程度」と言いだし、日本共産党・運輸一般も口をそろえ「32項目は今後再検討」(石沢運輸一般書記長-当時)と同歩調をとった。
この分裂によって誰が一番利益をあげたのだろうか。それは集団的労使関係と32項目協定の破壊に成功した工組とセメント独占である。
日本共産党による分裂策動の本質もここにある。独占の反撃で関生支部のみならず日本共産党までが攻撃される、それを何としてでも避けたい、というのが日本共産党と荒堀労働局長の判断であり、実行犯が引間運輸一般委員長である。「風聞」等はその口実のためにデッチ上げたものでしかなく、その本音はひたすら独占資本と権力に対する弁解を主旨とした投降「声明」でしかない。
大阪地労委命令「工組は32項目について団交に応じよ」/85年8月

日本共産党による分裂攻撃で勢いづいた工組は弥生会の筋書どおり団交拒否に出た(84年2月)。以後、関生支部は一方での弥生会の協約破棄と闘うと同時に、工組に対する協約履行・団交実現が大きな焦点となった。工組との闘いの主要な舞台は大阪地労委へ移った。
一年以上もの審理を経て85年8月22日大阪地労委は大阪兵庫工組に対して、「32項目の労働協約事項や合意事項の遵守等に関して速やかに団体交渉を行わなければならない」旨の命令を発した。組合側の主張を全面的に採りあげた全面勝利である。
工組側の主張を全面的に斥ぞけ、団交拒否理由が全く不当であり、32項目の存在とそれを議題にした交渉を義務づけた点は画期的である。第一に「工組が、構成員の従業員の労働条件について、実質上の影響力を有する立場にある事」とし、第二に工組の交渉権についても「構成員からの委任に基づくものでなく」というように工組自体が交渉の当事者であるとした。第三に32項目の「内容は、過去に締結した労働協約の遵守等に関する事項であり」「これらの事項について団体交渉に応諾義務がある事は明らか」としている。
関生支部の政策闘争の前進と32項目協定についての主張の正しさが全面的に認められた。「32項目など存在しない」と口をそろえて直系主導工組体制に媚をふりまいてきた産労や運輸一般の悪宣伝を打ち破り、関生支部の主張が第三者法的機関で認知された。この命令が出るや全港湾も工組に対し「32項目を遵守すべき」との申し入れ(85年12月27日)を行い、闘いが支部のみならず社会的に波及した。
以後連日、工組および加盟156社に対し「地労委命令を守れ」の申し入れ・宣伝活動が展開された。工組はじめ弥生会・経営者会は「命令」無視の態度をとりつづけ、工組事務所がある駅前第三ビルへの抗議行動がくり広げられた。専業各社は支部からの申入れに対して32項目協定履行に関する責任の一端は認めたけれど1社だけでは責任がもてない、工組全体の問題であるとの態度を表明した。

中労委斡旋で雇用責任・各種助成を確認し解決/87年10月

工組への「32項目履行、団交応諾命令」をめぐる攻防は中央労働委員会へ舞台を移した。工組側はさしたる立証も行わずだらだらと引延ばしをはかったが、労組側による郵政の中で中労委による和解斡旋に一縷の望みを託して逃げまわった(第1回審問86年4月24日)。
87年10月7日、ついに中労委立会いのもと労組側の主張をうけいれた内容で解決した。大阪兵庫生コン工組伊藤代表理事と武委員長との間で協定書が調印された。
内容は第一に第一次共廃によって失業した者、82年共廃時の箕島分会、および茨木生コンS氏の雇用責任の履行。第二に第一次共廃の失業者への工組による退職金補てん。第三に保養所および六甲技研センターの管理運営に労組を参加させる事。第四にレクリエーションが1回行われただけで以後7年間とりやめられているが、これへの補助金助成。
以上の四点で解決した。これにより32項目協定履行を求める関生支部の運動が社会的に認知され、工組に対しその履行を求める圧力を形成する事になった。中労委からも解決にあたって「工組がリーダーシップをとって労使正常化をはかるように」との指導がなされ工組の責任が指摘された。この発言にもあるように今回の和解の背景には、これまでの〝連帯シフト〟のような対労敵視をとりつづければ決して業界がまとまらないという業界内の動きもつよく反映している。
この点で運輸一般の自称〝大運動〟のように業界安定・自立かへの展望策をもたないまま協組への結集を叫びたてる「方針」では、セメント独占による業界支配、直系主導の工組-協組丸ごと支配を保管する役割しか果たさない。生コン支部の運動は業界をまとめる事が自己目的でなく、中小企業の自立と労働者の権益を向上させる手段として政策闘争を進めている。(この点については時節「奈良方式」を参照)

協約履行めぐり対立点を残したまま今日へ/88年夏
工組に対し中労委協定の履行を求めるための懇談会がひらかれた。協定内容は雇用責任と各種補助・助成である。
工組は労使関係のない人間を担当者にしたり、当時の事実経過を把握していない事を理由に責任のがれの発言をする始末である。第三回懇談会(88年1月22日)では「懇談会工組側委員の見解」なるものを示して、「協定内容は解決ずみ」「(雇用責任は)構改と無関係、大阪協と話し合いを」と事実関係を歪曲し責任のがれに終始した。
毎回の懇談会は支部の激しい追求と工組の責任のがれの対応の中で対立点がより鋭くなり暗礁にのりあげた。そして、ついに第七回懇談会で結論を見いだせぬまま双方の主張が平行線をたどり解決を後日に託す方向で一旦うちきられた。
 

第2章 第9節 「奈良方式」の出発・確立と企業への政策対応
             
  1982年夏~1987年 に続く

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